『平家物語』の原文・現代語訳23:大納言これに猶恐れをも致されず~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『大納言これに猶恐れをも致されず~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

鹿の谷の事(続き)

大納言これに猶恐れをも致されず、賀茂の上の社の御宝殿の御後なる杉の洞(ほら)に壇を立て、ある聖をこめて、ダ幾爾(ダキニ)の法を百日行はせられけるに、ある時俄(にわか)に空かき曇り、雷(いかづち)おびただしう鳴つて、かの大杉に落ちかかり、雷火燃え上つて、宮中すでに危ふく見えけるを、宮人(みやうど)ども、走り集りて、これを打消す。

さてかの外法(げほう)行ひける聖(ひじり)を追ひ出さんとす。『われ当社に百日参籠の志あつて、今日は七十五日になる。まつたく出づまじ』とて動かず(はたらかず)。このよし社家より大内へ奏聞申したりければ、『ただ法にまかせよ』と宣旨を下さる。その時神人白杖をもつて、かの聖が項(うなじ)をしらげて、一条の大路より南へ追越してげり。『神は非礼を享けず(うけず)』とこそ申すに、この大納言非分の大将を祈り申されければにや、かかる不思議も出で来にけり。

その頃の叙位除目(じょいじもく)と申すは、院・内の御計ひ(おんはからひ)にもあらず、摂政・関白の御成敗にも及ばず、ただ一向平家のままにてありければ、徳大寺・花山の院もなり給はず、入道相国の嫡男小松殿、その時は未だ大納言の右大将にてましましけるが、左に移りて、次男宗盛中納言にておはせしが、数輩(すはい)の上臈を超越して、右に加はられけるこそ、申すばかりもなかりしか。

中にも、徳大寺殿は、一の大納言にて、花族英雄、才学雄長、家嫡にてましましけるが、平家の次男宗盛の卿に加階(かかい)越えられ給ひぬるこそ遺恨の次第なれ。『定めて御出家などもやあらんずらん』と、人々ささやき合はれけれども、徳大寺殿は、『しばらく世のならん様を見ん』とて、大納言を辞して籠居(ろうきょ)とぞ聞えし。

新大納言成親の卿の宣ひけるは、『徳大寺・花山の院に越えられたらんはいかにせん。平家の次男宗盛の卿に加階越えられぬるこそ、遺恨の次第なれ。いかにもして、平家を亡し、本望を遂げん』と宣ひけるこそ恐ろしけれ。父の卿は、この齢(よはい)では、わづか中納言までこそ至られしか。その末子(ばっし)にて、位正二位、官大納言に経あがつて、大国数多賜つて、子息・所従・朝恩に誇れり。何の不足あつてか、かかる心つかれけん。ひとへに天魔の所為とぞ見えし。

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[現代語訳・注釈]

新大納言はそれでも恐れることはなく、上賀茂神社にある聖(坊主)を籠らせ、御宝殿の後ろにある杉の洞に壇を立てて、ダキニの法を百日間にわたって行わせると、この大杉に雷が落ちて、落雷で炎が燃え上がり、社殿にも危うく燃え移りそうに見えたので、大勢の宮司たちが駆け寄って消し止めた。

そしてこの外道の秘法を行った聖を追い出そうとした。『私はこの神社に百日参籠の悲願があり、今日はその七十五日目になる。全く出て行くつもりはない。』といって動いてくれない。この次第を神社から内裏へと奏上すると、『ただ法によって追い出せ』という宣旨が下された。その時、神人たちは白杖を持って、この聖の襟首を突いて、一条大路から南へと追放した。『神は非礼をお受けにならない。』と申すが、この大納言は分不相応に大将になりたいとお祈り申し上げたからだろうか、このような異常な出来事が起こったのである。

その頃の叙位・除目(朝廷人事)というのは、院・天皇のお計らいではなく、摂政・関白のご決裁でもなく、ただ全てが平家の思いのままだったので、徳大寺も花山院も大将になることができず、入道相国(清盛)の嫡男である小松殿(重盛)が大納言の右大将であられたが、左大将へと昇格した。次男宗盛は中納言でおられたが、数人の上級貴族を飛び越えられて、右大将になられたことは、申し上げるほどのことでもない当然のことだった。

中でも徳大寺殿は筆頭大納言であって、花族英雄(清華家)の家柄で博識多才であり、嫡男でもいらっしゃったので、平家の次男宗盛に位階の昇進で抜かれたのは遺恨に感じることであった。『きっと御出家でもなされるのだろう。』と人々は囁き合っていたが、徳大寺殿は『しばらく世の中のなりゆきを見ていよう』と言って、大納言を辞職して籠居されるということであった。

新大納言の成親卿は、『徳大寺・花山院に位階を越えられてしまうような場合はどうしようもない。平家の次男宗盛卿に位階を抜かされてしまうのは恨めしいことである。何とかして平家を滅ぼして、本望を遂げてくれよう。』という恐ろしいことをおっしゃっていた。父の家成卿はこの年で、何とか中納言にまで昇った。その末子で位は正二位、官は大納言にまで上がって、数多くの大国を所領し、子息や従者も朝廷の恩を受けて誇らしく思っている。何の不満があって、このような恐ろしい陰謀(の心)に取り付かれたのか。ひたすら天魔の仕業のように思われた。

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