“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。
『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。
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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)
[原文]
第五条
一。親鸞は、父母の孝養のためとて、一返(いっぺん)にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情(うじょう)はみなもて世々生々(せせしょうしょう)の父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生(しょう)に仏になりてたすけさふらうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向(えこう)して父母をもたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎさとりをひらきなば、六道・四生(りくどう・ししょう)のあひだ、いづれの業苦(ごうく)にしづめりとも、神通方便(じんつうほうべん)をもて、まづ有縁(うえん)を度すべきなりと云々。
[現代語訳]
親鸞は亡くなった父母の追善供養のためだといって、念仏を唱えたことは一度もございません。その理由は、あらゆる生き物(衆生)はみんな世代を越えて生まれ変わっているので、ある時にはそれぞれが誰かの父母や兄弟になっているものだからで、どの命も極楽往生して仏になった時には(自分の父母や家族だけを特別扱いせずに無分別の心で)、助けて上げなければならないのです。
自分の力で努力する善行の積み上げであれば、念仏の功徳を父母に向け変えて助けて上げることもできるでしょう。私はただ自力救済の道を捨てて、急いで悟りを開きたいのですが(その悟りが開けて仏になったならば)、六道・四生の輪廻の生まれ変わりの世界の間で、父母がどのような業苦に沈んでいたとしても、不思議な神通力を用いて、まずは自らの父母を救済することができるでしょう。
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