S.フロイトとJ.ブロイアーが共著で出版した『ヒステリー研究(1895年)』には5つの神経症(ヒステリー)の症例が掲載されています。エリザベート・フォン・R(Elisabeth von R.)の症例もそのうちの一つであり、エリザベートは三人姉妹の末の妹して生まれ、病弱な母親と敬愛する父親に可愛がられて育てられました。エリザベート嬢は、数年前から続く両足の痛みと麻痺を訴えており、強い疲労感も合わさって歩行することが困難な症状が出ていました。
S.フロイトはこのエリザベート嬢に対して、『自由連想法』の先駆けとなる催眠の要素を残した『前額法』を用いて心理療法を実施しました。『前額法』というのは、閉眼させたクライアント(患者)の額を手で押さえながら、『過去の記憶・感情』を頭に思い浮かぶままに話させるという技法であり、S.フロイトがO.アンナ嬢の談話療法と催眠療法を参考にしながら実用化した技法でした。エリザベート嬢の性格特性は、知的で好奇心に満ちているが、男性的な振る舞いがあり負けず嫌いの傾向が強い性格だったと言われています。
三人姉妹の末娘だったエリザベート嬢は、ハンガリーからウィーンへと移住するのですが、その後間もなく優しかった父親が持病の心臓病を悪化させて倒れます。エリザベスは献身的に父親を看病しますが、その時に1度だけ右足に痛みが出たものの、その右足の痛みは短期間で回復しました。父親が心臓疾患で亡くなった後に、二人の姉が結婚することになり、エリザベスだけが未婚のまま身体の弱かった母親と暮らすことになりますが、エリザベスは二番目の姉(次女)の夫に密かにちょっとした好意(恋愛感情に近い思い)を抱いていたようです。二番目の姉が出産した頃に、母親が眼科疾患の手術を受けることになり、その後、久しぶりに母親と三姉妹で避暑地に出かけて憩いのひと時を過ごしました。
しかし、避暑地で家族水入らずの休暇を過ごしている時に、両足が激しく痛んで歩行困難になるというエリザベスのヒステリー症状が悪化し始めます。エリザベスは父親の病気の看病をしている時に、初恋の男性とデートに出かけたことがあり、デートから帰宅すると父親の病状が悪化したという経験をしています。この経験をしてからエリザベスの右足の痛みが発症したのですが、彼女は父親の包帯を交換する時に『父親の脚』を載せていた自分の右足の大腿部に痛みを感じるようになったのです。自分が父親の看病を怠けて、男性とデートをして遊んでいたから父親の病状が悪化したのだという『罪悪感・自責感(自罰感情)』が、右足の痛みへ転換されたと推測することができます。
エリザベスは二番目の姉の夫と二人で楽しく散歩したことがあったのですが、その散歩の時に立ち寄った場所にもう一度行った時にも、父親の看病を休んでデートした時と同じような『強い痛み』が右足の大腿部に走ったのでした。二番目の姉は二回目の妊娠出産の影響で、持病の心臓疾患を悪化させて亡くなるのですが、姉が亡くなるとエリザベートの両足の痛みや歩行困難といった症状はますます悪化しました。S.フロイトが前額法を用いた心理療法を行っていくと、エリザベートは『二番目の姉や姉の夫にまつわる記憶』を語ろうとする時に足の激しい痛みを訴え、その痛みに耐えて『過去の重要な思い出』を感情を込めて語った時にその痛みが和らいでいきました。
エリザベートは姉が亡くなった時に、『姉さんが亡くなったので、これで私が義兄と結婚することができる』という反道徳的な考えや欲求が浮かんだことをフロイトに語りましたが、この抑圧された感情・欲求を勇気を出して語ることによって『除反応(abreaction)=カタルシス』の治療効果が生まれたのでした。義兄への恋愛感情や性的関心を過度に抑圧していた『エリザベートの症例』は、フロイトが『抑圧の防衛機制(無意識への感情の抑圧)』や『自由連想法』を開発するきっかけとなった症例でした。
精神分析の精神病理学では、自分が受け容れがたい“感情・願望”や道徳的に認められない“欲求・考え”を無意識に抑圧することによって、抑圧した『激しい情動・強い罪悪感』が神経症の身体症状に転換されると考えるようになっていきます。意識領域から『自分が受け容れられない感情・欲求・罪悪感』を排除して、無意識領域へとそれらの感情を抑圧することによって神経症が発症するのですが、S.フロイトは人間がもっとも素直に認められない願望として『反道徳的な性的欲求・恋愛感情』を想定したのです。
『ヒステリー研究』に収録されている『ルーシーの症例』というのは、住み込みの家庭教師をしていたルーシーが、突然焦げたプディング(プリン)の不快な臭いに悩まされるようになったという幻嗅(げんきゅう)の症例です。学識に優れていたルーシーは二人の子どもの家庭教師として住み込みで働いていたのですが、子どもの父親は妻を亡くした寡夫(男やもめ)であり、ルーシーはこのかなり年上の男性に恋愛感情を抱くようになっていたのです。しかし、家庭教師としての自覚を持つルーシーは、教え子の父親を好きになることは道徳的に許されないと考えて、その男性への恋愛感情を断念しました。すると、上述したようなプディングの焦げたような嫌な臭いが、どこからともなく漂ってくるという幻嗅の症状に襲われるようになったのです。
S.フロイトの心理療法を受けたルーシーは、『自分が教え子の父親である男性に好意(恋愛感情)を抱いていたこと・道徳的にその恋愛感情を抑圧して嫌々ながらも諦めたこと』を感情を込めて語ることができるようになり、その感情の言語化の過程を通して嫌な臭いが漂ってくるという症状は消失していきました。ルーシーの症例でも『自分が認めたくない感情・願望』を言葉にして語り認めていくことで、神経症の症状が回復するというフロイトの仮説が確認されたのです。
1899年にS.フロイトが心理療法を実施した『ドラの症例』では、18歳の少女だったドラが神経性咳や知覚障害、過度の疲労感などの神経症の症状を訴えているのですが、その原因にはドラを取り巻く両親や大人たちの『不倫・欺瞞・道徳の退廃』など複雑な事情が関係していました。ドラの父親は『親友K氏の妻』と不倫をしており、その不倫行為をK氏から容認してもらう代わりに、K氏が娘のドラを女性として取り扱い性的に誘惑する行為を見逃しているという異常な状況にありました。ドラの父親が不倫しているK氏の妻も、ドラのことを可愛がっていて親密な関係にあり、K氏の妻はドラに対して同性愛的な身体の密着などをしてくることもあったといいます。
ドラは父親がK氏の妻と不倫をしていることに気づいていますが、大人たちは口裏を合わせていて『不倫の事実』を認めず、それはドラの妄想や想像に過ぎないとして欺瞞的な態度を取り続けています。そういった家庭道徳が崩壊して不倫が正当化されている環境の中で、ドラの神経症の心身症状は悪化していき、フロイトの心理療法を受けることになったのです。しかし、フロイトはドラの父親やK氏と知り合いだったということもあり、ドラとの心理面接で『ドラ自身の性愛に対する欲求・関心』にフォーカスして話を進めていったので、現代の倫理観からはフロイトの採った診療態度や治療方針に対して多くの批判もあります。
ドラはフロイトの勧めに従って自分の内面に存在していた性的な関心・不快感を自覚していく中で、神経症症状が改善していくのですが、ドラは自分を道徳的・精神的に苦しめてきた父親とK氏夫妻に直接の仕返しを企てます。フロイトの心理面接において『ひとりの自立した女性』として取り扱われたドラは、自分の言動や決断に対する自信を強めていきます。
ドラはK氏夫妻のもとを直接訪問して、K氏の妻に『父との不倫の事実』を認めさせ、K氏には『ドラを誘惑していた事実』を認めさせたのでした。退廃的な大人たちは共謀することでドラに『欺瞞的な嘘(不倫・誘惑など存在しないという嘘)』を信じ込ませようとしたのですが、自我を強化して自信を強めたドラはその欺瞞を暴き立てます。『客観的な事実』を嘘をついていた大人たちに認めさせることで、ドラは神経症の病理を一時的に克服したのでした。
ドラは中年期になってもヒステリー症状を完全に治癒することはできなかったようですが、40代の時に精神分析家F.ドイッチェと出会い、『事実を見据えたフロイトの知的誠実さへの感謝・自分が「症例ドラ」であることの誇り』について語っています。S.フロイトが創始した精神分析の初期には、『O.アンナ・ルーシー・エリザベート・ドラ』といったヒステリーの症例とその臨床的発見が、その後の精神分析の理論的発展・深化に非常に大きな貢献をしたということができます。それら以外にもフロイトが手がけた有名な精神疾患の症例として、『狼男・ハンス少年・シュレーバー』などがあり、ハンス少年の症例はエディプス・コンプレックスの発見や超自我の形成理論などにつながりました。
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