『中庸』の書き下し文と現代語訳:19

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儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

参考文献
金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

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[白文]

右第二十二章

唯天下至誠、為能尽其性。能尽其性、則能尽人之性、則能尽物之性。能尽物之性、則可以賛天地之化育。可以賛天地之化育、則可以与天地参矣。

[書き下し文]

右第二十二章

唯(ただ)天下の至誠、よくその性を尽くすことを為す。よくその性を尽くせば、則ちよく人の性を尽くす。よく人の性を尽くせば、則ちよく物の性を尽くす。よく物の性を尽くせば、則ちもって天地の化育(かいく)を賛すべし。もって天地の化育を賛すべければ、則ちもって天地と参すべし。

[現代語訳]

天下の至誠を体現した聖人は、ただその天命の性(万物の根源にある本質)を察してそれを尽くすものである。自分の性を尽くすということは、他者の性を尽くすということでもある。他者の性を尽くせば、物の性を尽くすということになる。物の性を尽くせば、天地が万物を生成発育させる働きを賛助・促進することができる。天地の万物生成の原理を賛助・促進すれば、天地と共に立って(天地人の三者の均衡を実現して)天命に適うことができる。

[補足]

天下において誠の徳を究極的に体現した聖人が、どのようにしてその『天性・天命』を尽くすのかを説明している。聖人が自分自身の『性』を尽くすということは、『他者・物(社会)の性』を同時に尽くして徳治政治の土台を作り上げるということであり、更に聖人は天地が万物を生成発育させる自然の摂理を賛助することもできるという。

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[白文]

右第二十三章

其次致曲。曲能有誠。誠則形、形則著、著則明、明則動、動則変、変則化。唯天下至誠為能化。

[書き下し文]

右第二十三章

その次は曲を致す。曲よく誠あり。誠あれば則ち形あり、形あれば則ち著しく、著しければ則ち明らか、明らかなれば則ち動き、動けば則ち変じ、変ずれば則ち化す。唯天下の至誠よく化することを為す。

[現代語訳]

聖人に及ばない次の賢人以下の人たちなどは、仁義・忠孝・孝悌などの徳性の一端から道を推測して極めていく。正しい徳性の推測ができれば誠につながる。誠があれば、外に形となって現れる、形があれば徳は著しくなり、著しくなれば徳のあることは明らかで、徳が明らかであれば人々を動かし、人々が正しい方向に動けば世の中が変わり、世の中が変われば天下国家が徳化されて治まることになる。天下にいる至誠の聖人は、ただ天下を徳化・教化することができるのである。

[補足]

天賦の資質としての性に恵まれた聖人は、すべての徳性を理解して実践することが簡単にできる。だが聖人に及ばない賢人やそれ以下の人たちの場合には、『仁義・忠孝・孝悌』などの儒教の徳性の一端をしっかりと学び実践して、その一端から正しい道を推測して極めていくしかないのである。この章では、誠を極めた『聖人』とは即ち天下・人民を正しい方向へ徳化・教化することができる者だとしている。

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[白文]

右第二十四章

至誠之道、可以前知。国家将興、必有禎祥。国家将亡、必有妖ゲツ。見乎蓍亀、動乎四体。禍福将至、善必先知之、不善必先知之。故至誠如神。

[書き下し文]

右第二十四章

至誠の道は、もって前知(ぜんち)すべし。国家将に興らん(おこらん)とすれば、必ず禎祥(ていしょう)あり。国家将に亡びんとすれば、必ず妖ゲツ(ようげつ)あり。蓍亀(しき)に見れ(あらわれ)、四体に動く。禍福(かふく)将に至らんとすれば、善必ず先ずこれを知り、不善必ず先ずこれを知る。故に至誠は神の如し。

[現代語訳]

天下における至誠の道は、事前に予見して知ることができる。国家がまさに勃興(発展)しようとする時には、必ず吉祥(瑞兆)の良い知らせがある。国家がまさに滅亡しようとする時には、必ず妖しげな凶兆が見られる。占いの卜筮(ぼくぜい)にもその吉凶の兆しは現れ、その占う人の四体の動きにも現れる。禍福(幸福・幸いと不幸・災い)がまさに差し迫ろうとする時に、至誠なる聖人は、善をまず必ず知り、更に不善についてもまず必ず知ることができる。故に、至誠というのは神のようなものである。

[補足]

科学主義の現代においては『吉兆・瑞兆』や『凶兆・悪報』は『迷信・偶然』として片付けられてしまうが、古代中国においてはこれらの自然の兆候は『人為では回避できない天命の現れ・運命の現れ』として重視されていた。儒教における至誠の聖人は、天地・自然が様々な現象として告げてくる吉兆と凶兆を識別できる宗教者のような側面も持っていた。占いをする者の卜筮や身体にも、そういった禍福が近づいている兆候が影響を与えていたのだという。

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