『史記 仲尼弟子列伝 第七』の現代語訳・抄訳:6

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中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 仲尼弟子列伝 第七』の6について現代語訳を紹介する。

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司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

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[『史記 仲尼弟子列伝 第七』のエピソードの現代語訳:6]

南宮括(なんきゅうかつ)は字を子容(しよう)といった。

子容が孔子に言った。『ゲイは射撃(弓)の名人で、ゴウは舟を動かす怪力でしたが、共に満足な死に方をしませんでした。夏の禹王(うおう)や周の后稷(こうしょく)は、自ら地道に耕しましたが天下を得るまでになりました。』

(子容のこの発言は、ゲイやゴウを華やかな時代の権力者に喩えており、夏の禹や周の稷を地道に君子の道を治める孔子に喩えている。)

孔子はこれに答えなかった。子容が退出すると孔子は言った。『君子であるな、あの人は。徳を重視しているな、あの人は。』『国に道があれば取り立てられ、国に道がなくても刑罰を免れることができるだろう。』

子容は『白珪(しらたま)の欠けたるは、なお磨くべきなり』という『詩経』の句を繰り返していたが、孔子は兄の娘を子容に娶わせた(めあわせた)のである。

公皙哀(こうせきあい)は字を季次(きじ)といった。孔子は彼について言った。『天下に道を行う者はなく、多くは大夫の家臣になり都で仕官するが、季次だけは信念を曲げず(自分が認めない大夫などに)仕官したことがない。」

曾テン(そうてん)は字を皙(せき)といった。孔子の側に侍していたが、孔子が言った。『お前の志を述べてみよ。』

曾テンは答えた。『新しい春服を着て、青年5~6人、子供6~7人を連れて、沂水の温泉を浴びて、舞ウ(ぶう)の雨乞い台で風に吹かれ、詩を詠じて帰りたいと思います。』

孔子は感嘆して言った。『私もテンと同じである。』

顔無ヨウ(がんむよう)は字を路(ろ)といった。路は、顔回の父である。父子はかつて別々の時に孔子に師事した。顔回が死んだ時、路は貧しかったので、孔子の車を貰ってそれを売って葬儀をしたいとお願いした。

孔子は言った。『才能があってもなくても、親から見れば同じ子供である。私の子供である鯉(伯魚)が死んだ時も、棺(かん)はあったが棺の外箱の槨(かく)は無かった。私は車を売ってまで子に槨を作ってやろうとしなかったが、それは私が大夫(車で出仕すべき身分)の末席にあって、徒歩で出仕することが出来なかったからである。』

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商瞿(しょうく)は魯の人で、字を子木(しぼく)といった。孔子より29歳年下である。

孔子は易(えき)を瞿に伝えた。瞿はその易を楚人の干臂子弘(かんぴしこう)に伝えた。弘は江東人の矯子庸疵(きょうしようし)に伝えた。疵(し)は燕人の周子家豎(しゅうしかじゅ)に伝えた。豎は淳于人(じゅんうじん)の光子乗羽(こうしじょうう)に伝えた。羽は斉人の田子荘何(でんしそうか)に伝えた。何は東武人(とうぶじん)の王子中同(おうしちゅうどう)に伝えた。同はシ川人(しせんじん)の楊何(ようか)に伝えた。何は元朔の年(武帝時代)に、易に通じているという理由で漢の中大夫に出世したのである。

高柴(こうさい)は字を子羔(しこう)といった。孔子より30歳年下である。子羔は身長が五尺に満たず、孔子から教えを受けたが、孔子は彼を愚直な人物だとした。

子路(しろ)が子羔を后(コウ,山東省)の長官にした時、孔子は言った。『子羔はまだ学問のない未熟な者なのだぞ。』

子路は言った。『人民(政治の対象)もあり社稷(祭祀の対象)もある。(実際的な祭政もまた学問であり)必ずしも読書をすることだけが学問ではないのではありませんか。』

孔子は言った。『これだから、巧言令色の輩(口先の弁舌ばかりの人間)は嫌いなのである。』

漆雕開(しつちょうかい)は字を子開(しかい)といった。孔子が子開に仕官を勧めると、子開は答えて言った。『私は未だ未熟であり、自分にそのような能力があるとは信じられません。』孔子はその謙虚な言葉を喜んだ。

公伯繚(こうはくりょう)は字を子周(ししゅう)といった。子周が子路を季孫に対して讒言した。子服景伯(しふくけいはく,孔子に師事したことのある魯の大夫)は、そのことを孔子に告げて言った。『季孫は繚の讒言に惑わされています(このままでは子路の命が危ないです)。繚くらい、私の力で誅殺してその屍を街に晒してやることができます。』

孔子は言った。『道が行われるか廃れるかも天命である。公伯繚ごときがどうして天命を動かすことなどできるだろうか(小人を放っておいても天命のもたらす結果は同じである)。』

司馬耕(しばこう)は字を子牛(しぎゅう)といった。子牛はおしゃべりでうるさい人物だった。子牛が仁について質問すると孔子は答えて言った。『仁者はものを言う時に(おしゃべり・能弁ではなく)控えめなものである。』

子牛が言った。『ものを言う時に控えめであれば、それだけで仁と言えるのですか。』

孔子が言った。『仁を実践するのは難しい。だからそれを言う時には必然に控えめ、渋りがちになるのだ。』

君子について質問すると孔子が言った。『君子は憂えず、懼れもしないものだ。』

子牛が言った。『憂えず懼れなければ、それだけで君子だと言えるのですか。』

孔子は言った。『己を顧みて疚しいところがないのであれば、いったい何を憂えて何を懼れる必要があるというのか。』

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