『史記 仲尼弟子列伝 第七』の現代語訳・抄訳:3

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中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 仲尼弟子列伝 第七』の3について現代語訳を紹介する。

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司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

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[『史記 仲尼弟子列伝 第七』のエピソードの現代語訳:3]

端木賜(たんぼくし)は衛の人で、字(あざな)を子貢(しこう)と言った。孔子より31歳年下である。子貢は弁舌が巧みで優れていたが、孔子は常にその弁舌を抑制していた。孔子が子貢に言った。

『お前と顔回とではどちらが優れていると思うか。』

『私ごときがどうして顔回のようになれるでしょうか。回は一を聞いて十を知る者ですが、私はせいぜい一を聞いて二を知るといった程度です。』

子貢は孔子からかなりの教えを受けてから質問した。『私はどのような人物でしょうか。』

孔子は言った。『お前は器・道具である。』

子貢は言った。『どんな道具でしょうか。』

孔子は答えた。『瑚璉(これん,宗廟の祭祀に用いる高級な祭器)である。』

陳子禽(ちんしきん)が子貢に聞いた。『仲尼(ちゅうじ,孔子)は誰に学んだのですか。』

子貢は言った。『周の文王・武王の道はまだ滅んでしまったわけではなく、人々の間に伝えられている。賢者はその偉大な教えを覚えているし、賢者でない者もその小さな教えを覚えている。つまり、文王・武王の最も優れた道はどこにでも存在している。孔先生はあらゆる所で学ばないということがないが、いつも決まった師がいたというわけではない。』

陳子禽はまた聞いた。『孔子はどの国でも政治に関係されていますが、これは自ら求めてのことですか、それとも向こうの国から依頼されてのことですか。』

子貢は答えた。『孔先生は、温・良・恭・倹・譲の徳を備えていらっしゃるのでその結果である。先生のほうから政治を改善するために求めることもあるが、それは一般の人が官職を求めてするような求め方とは大きく異なっている。』

子貢が孔子に聞いて言った。『富裕でも驕ることなく、貧乏でもへつらうことがなければ、どうでしょうか。』

孔子は答えた。『良いことだ。しかし、貧乏でも道を楽しんでいる人、富裕でも礼を好んでいる人には及ばない(貧富の差そのものに全くこだわらずに、正しい道・礼楽を実践している人が最も優れていると言える)。』

田常(でんじょう,斉の大夫)が斉で乱を起こそうとしたが、高氏・国氏・鮑氏・晏氏(斉の有力な卿大夫)の勢力を恐れて、集めた兵力で魯を伐とうと画策した。孔子はこれを聞いて、弟子達に言った。

『魯は私たちの祖先の墳墓がある所、父母の国である。その国がこのような危険に晒されている。お前達はどうして魯を救うために出かけないのか。』

子路が私が行くと願い出たが、孔子はそれを止めた。子張・子石が行きたいと言ったが、孔子はこれも許さなかった。子貢が私が行きたいと申し出ると、孔子は許した。

子貢は斉に到着すると、田常に言った。『あなたが魯を伐とうとするのは間違いです。魯は伐つのが難しい国(伐っても利益の乏しい国)です。なぜなら、城壁は薄くて低く、濠は狭くて浅く、君主は愚劣で不仁、大臣は役に立たない者ばかり、士・民衆は戦争を嫌っています。あなたが戦うべき国ではありません。あなたは呉を伐ったほうが良いでしょう。なぜなら、呉は城壁が高くて厚く、濠は広くて深く、武器は頑丈で新しく、兵士は精鋭で食糧も多く、重器や精兵が城中にすでに揃っているからです。また呉は有能な大夫に命じてこれを守っています。この呉国は伐ちやすい国なのです。』

田常は忿然として言った。『あなたが難しいといっていることは、人が易しい(攻めやすい)と考えているものである。あなたが易しい(攻めやすい)といっていることは、人が難しいと考えているもので逆である。どうしてそのような反対のことを私に教えるのだ。』

子貢は言った。『私は「国内に憂患がある者は強国を攻め、国外に憂患がある者は弱国を攻める」と聞いています。私はあなたが斉の大臣の異論を受けたことで、三度封ぜられようとして、三度とも上手くいかなかったと聞いています。このような状況で今、魯を破って斉の領土を広めても、戦いに勝って斉王を驕慢にさせ、魯国を破っても大臣を尊大にさせるだけです。あなたの功績は認められず、斉王と日増しに疎遠になってしまうでしょう。魯との戦いは君主の心を驕慢にし、群臣の勢力を強めるだけで、あなたの成し遂げたい大事を成すことは難しいでしょう。君主が驕慢になれば恣意的に振る舞い、臣下が驕慢になれば権力を求めて争います。これでは、あなたは上は君主と険悪になり、下は大臣と争い合うことになって、あなたが斉で身を立てることは危うくなります。だから、呉を伐つべきだと申しているのです。呉を伐って勝てなかった時は、人民は国外で戦死して、大臣は国内で失脚します。あなたにとって上には大臣という強敵がいなくなり、下は人民から怨嗟の声を受けることもなく、君主を孤立させることができます。こうなれば、斉を制する者はあなたという事になるのです。』

田常は言った。『良い考えだな。しかし、我が軍はすでに魯に向かっている。今更引き返させて呉に行くとなれば、大臣たちに私が疑われるだろう。どうすれば良いのか。』

子貢は言った。『あなたは軍を抑えて魯を攻撃しないようにして下さい。私が使者として呉王の所に行き、呉が魯を救援して斉を攻撃するようにしましょう。そこであなたが軍を率いて、呉を迎え撃って下さい。』

田常はこれを了承して、子貢を南下させて呉王に謁見させた。

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子貢は呉王に言った。『私は、「王者たる者は外国の世継ぎを断絶させず、覇者たる者は敵国を強大にしない』と聞いています。また千鈞(せんきん)という重さでも、僅か一銖一両(いっしゅいちりょう)の軽い重さを加えれば、はかりの目盛りは動くのです。今、斉は万乗の大国ですが、更に千乗の魯を奪い取って、呉と強さを争おうとしています。だから私は密かに王の危難を心配しているのです。また呉が魯を救援するのは名声を明らかにすることであり、斉を伐つのは大きな利益を得られることです。泗水(しすい,山東省の川)の周辺の諸侯を懐かせて、暴虐な斉を誅罰して強大な晋を服従させれば、これ以上に大きな利益はありません。名分は滅びようとする魯を守ることにあり、実際には強大な斉を苦しめることができますので、智者であれば迷わずに行うでしょう。』

呉王は言った。『良い考えだ。だが私はかつて越と戦って、越王を会稽に閉じ込めたことがある。それ以後、越王は我が身を苦しめて戦士を養成し、呉に報復しようとする心を持っている。私が越を討伐するまで待ってくれ。その後であなたの意見を聴きいれよう。』

子貢は言った。『越の強さは魯以上のものではありません。呉の強さは斉以上ではありません。王が斉を放置して越を伐てば、その間に斉は魯を平定してしまうでしょう。王は正に滅びんとする魯国を守ることを名分としていますが、弱小な越を伐って強大な斉を恐れるというのでは、勇があるとは言えないでしょう。勇者は艱難を避けず、仁者は困窮している者を陥れず、智者は時機を失わず、王者は他国の世継ぎを絶えさせず、それぞれにその義を立てているのです。今、越を存続させて諸侯に仁徳をお示しになり、魯を救援して斉を伐ち、晋に威圧を加えれば、諸侯は必ず呉に入朝するようになり、覇業は成就するでしょう。また王が越について心配なのであれば、私が東に行って越王に謁見し、越からも出兵させて呉が斉を伐つ事業に従うようにさせます。それなら、越国の兵力を空にして、諸侯を従えて斉を伐つという名目が整います。』

呉王は大いに喜んで、子貢を使者として越に行かせた。越王は道を清掃して郊外まで子貢を出迎え、自ら馬車を動かして子貢の元を訪ねた。

『我が国は蛮夷の国です。あなたはどうして車馬を従えた厳しい行列でここにやって来たのですか。』

子貢は言った。『この度、私は呉王に魯を救援して斉を伐つようにと説きました。呉王の志はそれを望んでいますが、越を恐れており、「越国を滅ぼすまで待ってくれ。その後に斉を伐とう」と言っています。こうなると、呉は必ず越を破るでしょう。また人に報復する意志もないのに、相手からそのような疑いを掛けられるのは拙劣でしょう。人に報復する意志を持っていても、それを相手に知られてしまうのは危ういことです。事が実行される前にその計画が知られてしまうのは危険です。この三点は、事を成そうとする場合の大きな危険・憂慮なのです。』

越王句践(こうせん)は、頭を地につけて拝みながら言った。『私はかつて自分の力量を考えずに呉と戦って破れ、会稽に押し込められました。その痛恨の思いは、骨髄に達しています。それから日夜、唇を焦がし舌を乾かして思い悩み、ただ呉王も殺して自分も死のうと思っているのです。』

越王は進むべき道を子貢に質問した。子貢は答えて言った。『呉王はその性格が勇猛暴戻(ゆうもうぼうれい)であり、群臣は耐えかねています。国家は何度もの戦争で疲弊し、士卒は戦争の継続を忍びがたく思っています。民衆は上の権力を怨み、大臣には忠誠心がなくなっています。伍子胥が諫死して太宰の伯否が政治を司っていますが、主君の過ちを諌めずに従い、自分の私利私欲ばかりに走っています。これは国を弱める統治です。今、越王が援軍を送って呉王の意志を慮り、宝物を謙譲して機嫌を伺い、丁重に敬意と礼節を示せば、呉王は必ず斉を伐つでしょう。もし呉王が斉に勝てなければ、王にとっては幸いです。もし斉に勝てば、必ず兵を率いて晋に向かうでしょう。そうすれば私は北に行って、晋の君主に謁見し、一緒に呉を攻めるようにさせてみせます。それで、呉の国力は弱まるでしょう。精鋭の兵士は斉との戦いで尽き、重装備の兵士は晋で困窮し、このように疲弊した呉を王が攻撃すれば、必ず呉を滅ぼすことができましょう。』

越王は大いに喜んで承諾し、子貢に黄金を百鎰(いつ)、剣を一振り、優れた鉾を二本与えた。だが子貢はそれらを受け取らずに立ち去り、呉王に事の次第を報告した。

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