『史記 商君列伝 第八』の現代語訳・抄訳:4

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 商君列伝 第八』の4について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 商君列伝 第八』のエピソードの現代語訳:4]

商君が秦の宰相となって十年が経ったが、秦の公室の一族・外戚には商君を怨む者も多かった。趙良(ちょうりょう)が、商君に面会した。商君は言った。「私は、孟蘭皋(もうらんこう)が紹介してくれたお陰であなたに面会できました。これから交際したいと思いますが、良いでしょうか」。趙良は言った。「私は敢えて交際をお願いすることは致しません。孔子も『賢人を推挙して主君にする者は栄え、不肖者を集めて王となる者は失脚する』と言っています。私は不肖者ですので、ご命令には従うことができません。また、『資格もないのにその地位に就いていることを貪位(たんい)といい、資格もないのに名誉を受けていることを貪名(たんめい)という』と聞きますが、今あなたの命令に従って交際しますと、貪位・貪名の人になる恐れがあります。ですから、命令をお聞きして交際することはできません」。

商君は言った。「あなたは私が秦を治めているのが不満なのですか」。趙良は言った。「反省して人の言葉を聴き容れることを聡といい、内省して心の正邪を知ることを明といい、自らの私欲に打ち勝つことを強といいます。虞舜の言葉に『自ら卑下することは尊いことだ』とありますが、あなたは虞舜の道を自分の道として行えば良く、私に質問をする必要などはないのです」。

商君は言った。「元々、秦は戎狄(じゅうてき)と同じような習俗で、父子の区別もなく同じ家に雑居していました。今、私はその習俗を改めて、男女の区別を定めて、立派な宮門を建築し、文化的な先進国の魯・衛と同じようにしました。あなたは私の秦の統治を見て、五股大夫(ごこたいふ,百里奚)とどちらが賢明だと思いますか」。趙良は言った。「千匹の羊の皮は、一匹の狐の腋の下の皮に及びません。千人の付和雷同な人は、一人の志のある人物の信念・直言に及びません。周の武王は臣下に直言を許したことで栄え、殷の紂王は臣下を沈黙させたために滅亡しました。あなたが武王の政治を非とされないのであれば、私は一日中でも直言をしますが、(耳に痛い聞きたくない意見だからといって)どうか誅罰を加えないでください。いいですか」。

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商君は言った。「昔の言葉に、『貌言(ぼうげん,外面を修飾した言葉)は草木の花、至言(しげん)は草木の実、苦言は薬、甘言は毒』とあります。あなたが本当に一日中、正直に直言・諫言をして下さるなら、それは私にとって薬の苦言となるでしょう。私はあなたの直言に従おうとしているのに、どうしてそれを辞退する必要があるでしょうか」。

趙良は言った。「五股大夫(百里奚)は、楚の身分の卑しい人物でした。秦の繆公(ぼくこう)が賢君であることを聞いて、謁見したいと願い出ましたが、秦に行くお金がないので、秦から来た客に自ら身売りして奴隷になり、粗末な衣をまとって牛を飼いました。一年が経って、繆公がこれを知って、卑賤な牛飼いから採用して百官の上位に据えましたが、秦の国の人々は誰も不満を言いませんでした。6~7年、秦の宰相を務めてから、東の鄭(てい)を伐ち、晋の恵公、懐公、文公の三君を位に就けて、晋を楚の危難から救いました。国内を教化して、巴人(現四川省の原住民)も朝貢するようになりました。

徳を諸侯に施したことで、八戎(はちじゅう)までやって来て帰服しました。由余(ゆうよ,西戎の賢者)がこれを聞いて、五股大夫を訪れて面謁をお願いしました。五股大夫が秦の宰相を務めていた時には、疲れていても立ったまま車に乗り、暑くても車に幌(ほろ)を掛けませんでした。都を通る時にはお供の車も従えず、武装した兵士も連れていませんでした。その功績と名誉は記録されて倉庫に保存され、その徳行は後世にまで伝えられました。五股大夫が死ぬと、秦の国中の男女が涙を流して悲しみ、子供も歌を歌わず、臼を搗く者も杵歌を歌いませんでした。これらが五股大夫(百里奚)の徳なのです。

しかし、あなたは孝公に拝謁するために、孝公の寵臣である景監に紹介してもらい、これは名誉を損ねる事なのです。秦の宰相になってから百官・民衆の利益を図らず、壮大な宮門を建築されましたが、これは功績に当たらないのです。太子の師や傅(ふ)を処罰したり刺青の刑に処したりして、民を厳しい刑罰で殺傷されましたが、これは人々の怨恨を積み重ねて災いの種を蓄えたようなものです。徳行が民を教化する力は命令よりも深く、民が上の行為を見習う速さは命令よりも速いのです。

今、あなたが行ってきた事は道理に背いていて新法も道理を外れているので、これでは民を教化することなどできないのです。あなたは君主同様に南面して、寡人(かじん)と称して日々秦の貴公子の罪を裁いています。『詩経』にこうあります。『鼠には鼠としての形があり。人にして人たるの礼なきもあり。人たるの礼無ければ、生きる価値なく、早くに死ぬことになる』。この詩を見ると、あなたの所業は天寿をまっとうできないものなのです。鼻削ぎの刑に処した公子虔(こうしけん)は八年間も門を閉じて外に出てきていませんが、あなたは更に祝懽(しゅくかん)を死刑にして公孫賈に刺青の刑罰を行いました。

詩にこうあります。『人の心を得る者は栄え、人の心を失う者は滅びる』と。これらの事柄は、人心を得られる行いではないのです。あなたが外出する時には、お供の車が十数台も後ろを走り、車には武装兵を乗せ、強力な腕力の強い兵士が陪乗して、矛や槍を持った兵士が車に付き添いながら走っています。これらが一つでも備わっていない状況では、あなたは決して外出しません。『書経』にこうあります。『徳を恃む者は栄え、力を恃む者は滅びる』と。あなたの危険は朝露のようなものなのです。それでもなお、長寿を望みますか。そうならば、どうして十五邑を返還して田舎に引っ込んで国の樹木に水をやるような暮らしをされないのですか。隠遁している有能な士を探して秦王に推薦し、老人を養い、孤児を育て、父兄を敬い、功労者に正当な地位を与え、有徳者を尊敬しないのですか。

そうすれば、少しは安らげるでしょう。あなたが商・於の富を貪って、秦国の政治の独占に自惚れ、百官・民衆の怨恨を蓄えるならば、いったん(あなたを厚遇する)秦王が崩御して朝廷に立てなくなれば、あなたを捕縛して罰しようとする人が少ないはずがありません。あなたの破滅はすぐであり、足を上げて待っていれば十分なのです」。だが、商君はこの趙良の直言に従わなかった。

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五ヶ月後、秦の孝公が死んで、太子(恵王)が即位した。公子虔の仲間が商君が謀反を起こそうとしていると密告したので、警吏が出てきて商君を捕縛しようとした。商君は逃げ出して函谷関の辺りに至り、宿に泊まろうとした。宿の主人は相手が商君だとは知らずに、「商君の法律では、旅券を持たない人を泊めると罪になります(ですのでお泊めすることができません)」と言った。商君は大いに慨嘆して言った。「ああ、行き過ぎた法律の弊害はここまでであったか」。

立ち去って魏に行った。魏の国人は、商君がかつて公子コウを騙して魏軍を破ったことを恨んでおり、受け入れなかった。商君は他の国に行くことにした。魏の国人は言った。「商君は秦の国賊である。秦は強国であるから魏に入った秦の国賊をそのまま帰すわけにはいかない」と。遂に、商君を秦に送り返してしまった。商君は秦に入ると、商邑に逃げ込み、仲間と協力して商の村人を組織した部隊を出して、北の鄭(てい)に出ようとした。秦は軍隊を出して商君を攻め、鄭の黽池(めんち)で殺害した。秦の恵王は商君の屍(しかばね)を車裂きの刑に処して言った。「商鞅のように謀反することがないように」と。更に、商君の一族を滅ぼしてしまった。

太史公(たいしこう)曰く、商君はその天性が残酷で無情な人だった。孝公に仕えようとして帝王の道を説いたが、心にもないことを語っただけで彼の本質ではない。孝公への紹介を頼んだ臣下は孝公の寵臣であり、採用されると、公子虔を処罰し、魏の将軍公子コウを騙し、趙良の言葉を聞き入れなかった。これらは、商君の恩情の少なさを明らかにしている。私はかつて商君が書いた『開塞・耕戦(かいそく・こうせん)』などを読んだが、そこには商君の事績と似た内容がある。商君は秦で悪名を受けることになったが、それは理由のあることである。

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