『史記 蘇秦列伝 第九』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 蘇秦列伝 第九』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 蘇秦列伝 第九』のエピソードの現代語訳:1]

蘇秦(そしん)は、東周の洛陽(河南省)の人である。東方で学んで斉(せい)で師を求め、鬼谷先生(きこくせんせい,戦国時代の縦横家・兵法家)に従って教えを受けた。数年間の間、遊学をして、経済的にとても困窮して帰国することになった。兄弟・兄嫁・妻妾までが密かに嘲笑って言った。「周の人々の習俗では、農業に励み、商工業に力を注ぎ、二割の利益を出すことを本務としている。あなたはその本業を放棄して口先だけの弁舌(周の社会の常識では一銭の価値もないこと)を生業にしているのだから、困窮するのが当たり前ではないか」と。

蘇秦はこれを聞いて慚愧の念に囚われ自分を責めた、部屋に閉じこもって外出もせず、書物を取り出してその全てをもう一度読んでみた。そして、蘇秦は言った。「学問を志す士が、首をかがめて書物を読み漁っても、俗世の尊敬や栄誉を得ることができなければ、いくら万巻の書物を読んだといってもそれがいったい何の役に立つのだろうか」と。そうこうしていると、『周書』の陰符(いんぷ,周の太公望呂尚の兵法書)を見つけて、読みふけった。一年後に、相手の意図を察することができるようになり、「これは当世の君主をも説得できる技術である」と言った。周の顕王(けんおう)に面会を願ったが、顕王の左右の臣下は蘇秦の来歴を良く知っていて、みんな蘇秦のことを軽んじていたので信用しなかった。

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西方の秦に行った。秦の孝公(法家の商鞅を重用した君主)は既に死んでいたので、その子の恵王に言った。「秦は四方を峻険な要害に囲まれた国で、山が多く渭水(いすい)が帯のように流れている。東方に函谷関と黄河、西方に漢中(中国大陸を制覇するための政治の重要拠点)があり、南方に巴・蜀(は・しょく)、北方に代・馬邑(だい・ばゆう)があり、天然の府庫となっています。秦の士民は数が多く、兵法の訓練も行っているので、天下を統一して、恵王が帝を称して統治することもできるでしょう」と。

秦王は言った。「鳥も羽毛が成長しないと高く飛ぶことができない。秦も政治経済・宗教が国内で理解されて盛んにならなければ、他国を併呑して統治することなどできない」と。秦は商鞅を誅殺したばかりであり、弁舌・理論の士を憎んでいて採用しなかったのである。

東方の趙に、蘇秦は行った。趙の粛侯(しゅくこう)は弟の成を宰相に任命して、奉陽君(ほうようくん)と呼んでいた。その奉陽君が蘇秦を受け入れなかったので、蘇秦は趙を去って燕(えん)に行った。

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一年余りが経ってから、燕の文侯(ぶんこう)に謁見を許されて蘇秦は言った。「燕は東に朝鮮・遼東(りょうとう)、北に林胡・楼煩(りんこ・ろうはん)があり、西に雲中(うんちゅう,現山西省)、九原(きゅうげん,現綏遠省)、南に呼沱・易水(こだ・えきすい)の川があります。その土地は二千余里の四方に広がり、武装兵力は数十万、戦車は六百乗、軍馬は六千匹、糧食は数年間を支えるだけの量があります。南には碣石・鴈門(けっせき・がんもん)の豊かな資源があり、北は棗(なつめ)や栗に恵まれ、民衆は耕作をしなくても棗や栗で十分に足りるのです。これは天然の府庫と言うべきものです」。

「安楽無事で、将軍が戦死するような敗戦を味わったことがないという意味で、燕より優っている国はないのです。大王はその理由をご存知でしょうか。燕が外敵(寇)に犯されず、武装兵に攻撃されなかった理由は、燕の南方に趙があって覆うような形で守ってくれているからです。秦と趙は五回戦って、秦が二勝、趙が三勝しています。秦と趙はお互いに疲弊して、王は無傷の燕を維持してその背後を制す位置にあり、これが今まで燕が外敵(寇)に犯されなかった理由なのです。

また、秦が燕を攻めようとすれば、雲中・九原を越えて、代・上谷を通って、数千里の道を進まなくてはいけません。秦が例え燕の城を占領しても、秦がどんなに計略を巡らしてもその城を守りきることはできません。秦が燕を侵略できないことは明らかなのです。趙が燕を攻める時には、号令を出してから十日もしない内に、数十万の軍勢が東垣(とうえん)に軍勢を布きます。そして、呼沱・易水の川を渡って、4~5日もしないうちに燕の国都に到着します。

だから、秦が燕を攻める時には遠く千里の外で戦うことになり、趙が燕を攻める時には近い百里の内で戦うことになるのです。百里の近しい憂患である趙を心配せずに、千里の遠い場所にある秦ばかりを恐れることは、これ以上に間違った計略はないと言えるのです。ですから、大王はどうか趙と合従(同盟)して親交を結んでください。天下が縦に一つになれば、燕国にとっての憂患は無くなるでしょう」と。

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