『史記 范雎・蔡沢列伝 第十九』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 范雎・蔡沢列伝 第十九』の1について現代語訳を紹介する。

スポンサーリンク

参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 范雎・蔡沢列伝 第十九』のエピソードの現代語訳:1]

范雎(はんしょ)は魏の人である。字(あざな)は叔(しゅく)。諸侯に遊説して魏王に仕えたいと望んだが、家が貧しくて自力で支度金を準備できなかったので、まず魏の中大夫の須賈(しゅか)に仕えた。

須賈が魏の昭王のために使者として斉に赴いた時、范雎もそれに従った。数ヶ月にわたって斉に留まったが、斉からの返事を貰えなかった。斉の襄王(じょうおう)は、范雎が雄弁だと聞いて、使者を送って雎に金十金と牛肉・酒を賜った。范雎は辞退して敢えて受けなかった。須賈はこれを知って大いに怒り、雎が魏の機密を斉に漏らして、この贈り物を得たのだと思い、雎に命じてその牛肉と酒を受け取って、金を返還させた。

そして帰国してからも心中に范雎への怒りを持っていて、魏の宰相に告げた。魏の宰相は魏の公子の一人で、魏斉(ぎせい)と言った。魏斉も大いに怒り、家来に命じて范雎を笞で打たせ、その肋骨を折って、歯を欠けさせた。范雎が死んだ真似をしていると、簀子(すのこ)で巻いて便所の中に置いた。酒に酔った賓客がかわるがわる雎に小便をかけて、殊更に辱めて後々の懲しめにして、みだりに機密を漏らす者がないようにしようとしたのである。

范雎は簀子の中から番人に言った。「あなたが私を脱出させてくれたら、必ず厚くお礼をしよう。」 そこで番人は簀子の中の死人を捨てたいと申し出た。魏斉は酔っていて、「良いだろう。」と言ったので范雎は脱出することができた。後になって、魏斉をこのことを悔やんで、再び雎を探し求めた。魏人の鄭安平(ていあんぺい)がこのことを聞くと、范雎を連れて逃げて隠れた。更に范雎は姓名を変えて張禄(ちょうろく)と称した。

正にその頃、秦の昭王が謁者(官名)の王稽(おうけい)を使者として魏に赴かせた。鄭安平は身分を偽って下僕となり、王稽に侍した。王稽は尋ねた。「魏には西方に連れていくほどの価値のある賢人がいるだろうか。」 鄭安平曰が言った。「私の郷里に張祿先生という方がいらっしゃいます。あなたにお会いして、天下の事柄について申し上げたいと望んでおります。しかし、先生には仇がいますので、昼間はお目にかかれません。」 王稽は言った。「夜に一緒に来てくれ。」 鄭安平は夜に張祿と共に王稽に会った。話がまだ終わらないうちに、王稽は范雎の賢明さを見抜いて言った。「先生、私を三亭(魏の国境にあった亭)の南で待っていてください。」 范雎は密かに約束すると去った。

スポンサーリンク

王稽(おうけい)は魏を去ると、三亭の南に立ち寄って、范雎を車に載せて秦に入った。湖(県名)に着くと、車騎が西からやってくるのを望見した。范雎が言った。「あそこにやって来たのは誰ですか。」 王稽は答えた。「秦の宰相の穰侯(じょうこう)が東方の県邑を回っているのです。」 范雎は言った。「聞くところによると、穰侯は秦の政権を専らにし、諸侯の国の賓客(遊説者)を入れることを嫌っているようですが、恐らく私を辱めることでしょう。私はいっそ車の中に隠れていることにします。」 しばらくすると、果たして穰侯がやって来て、王稽の労をねぎらい、車を止めて話しかけた。「関東(函谷関の東)には何か変わったことがあったか。」 「ありませんでした。」 また王稽に言った。「あなたは諸侯の国の賓客(遊説者)など連れてきていないだろうな。あの者どもは、無益でただ人の国をかき乱すだけである。」

王稽が言った。「敢えて連れてきたりなどしません。」 穣侯はそのまま別れて去った。范雎が言った。「穰侯は智謀の士だと聞いていましたが、意外に適当なように見えます。さっきは車中に人がいるのではないかと疑いながら、捜索することを忘れていました。」 そこで范雎は車を下りて逃げて言った。「必ず後悔して捜しに来るでしょう。」 十余里ばかり進むと、果たして騎馬兵に命じて車中を捜索させた。しかし、賓客はいなかったので、そのままとなった。王稽は遂に范雎を伴って、咸陽(秦の国都)に入った。

そして、使者としての報告をした後で言った。「魏に張祿先生という人物がいて、天下の雄弁の士です。『秦王の国は累卵(積み重ねた卵)よりも危ない。私の意見を得れば安泰だろう。しかし、文書ではそれを伝えることができない』と申しておりましたので、車に載せて連れてきました。」 秦王は信用せず、宿舎に泊めて、粗末な食事を与えていた。范雎はそういった状態で一年余り、秦王の命令を待った。

当時は、昭王が即位して三十六年に当たり、南の楚の焉(えん)・郢(えい,楚の国都)を抜いて、楚の懐王は秦に幽閉されてそのまま客死した。秦は東の斉を破り、斉のビン王はかつて帝と称したことがあったが、後にその帝号を廃して去った。秦はしばしば三晋(韓・魏・趙)に苦しめられたので、天下の雄弁の士を厭うて、その発言を信用しなかった。

楽天AD

穰侯・華陽君(かようくん)は、昭王の母の宣太后(せんたいごう)の弟であり、涇陽君(けいようくん)・高陵君(こうりょうくん)は昭王の同母弟であった。穰侯は宰相となり、他の三人は交代で将軍になって封邑(ほうゆう)を所有し、太后との縁故でその私家の富は王室以上のものであった。穰侯が秦の将軍になると、韓・魏を越えて斉の綱寿(こうじゅ,山東省)を伐とうとしたが、それは自分の封邑の陶を拡張しようとしてのことであった。

范雎は上書して言った。「私は『明君が国政に臨む時には、功ある者は必ず賞せられ、能力ある者は必ず官職に就けられる。労の大きい者はその俸禄が厚く、功の多い者はその爵位は尊く、よく衆を治める者はその官職は高い。そのため、能力のない者は敢えて職に当たらず、能力のある者も自らの才能を覆い隠すことはできない』と聞いております。もし私の言葉が意に適うなら、どうかそれを実行してますますその道を高めていってください。私の言葉が意に適わないなら、久しく私を留めておいても無益でしょう。古語に曰く、『凡庸な君主はその愛する者を賞し、その憎む者を罰する。明君はそうではない。賞は必ず功績ある者に加え、刑罰は必ず罪のある者に下す』と。今、私は胸は椹・質(ちん・しつ,死刑用の台と刀剣)に当たる資格はなく、腰は斧・鉞(ふ・えつ,死刑用の斧とまさかり)を持つ資格もない賤しい身分の者ですが、どうして自信のないことを申し上げて、王のことを試したりなどするでしょうか。私を卑賤の者として軽侮されても、私を保証して推薦する者(王稽)が王に背くような人物ではないとお信じにならないわけにはいかないでしょう。

かつまた、私の聞くところによると、『周に砥あい(しあい,宝玉の名前)、宋に結緑(けつりょく)、梁に県藜(けんれい)、楚に和樸(わぼく)という宝玉がある。この四つの宝玉は土から生じたもので、初めは優れた職人でも良い名玉とは気づかなかったが、遂には天下の名器となった』という。そうすると、聖王が無能だとして捨て去った者が、必ずしも国家を繁栄させないとは限らないのです。

スポンサーリンク
楽天AD
Copyright(C) 2016- Es Discovery All Rights Reserved