『史記 范雎・蔡沢列伝 第十九』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 范雎・蔡沢列伝 第十九』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 范雎・蔡沢列伝 第十九』のエピソードの現代語訳:2]

私は『大夫の家を繁栄させる人材は一国の中から探し出し、諸侯の国を繁栄させる人材は天下から探し出す』と聞いています。天下に明君がいれば、他の諸侯が国家を繁栄させる人材を思い通りに得られないのはなぜでしょうか。明君が優れた人材を割いて取ってしまうからです。名医は病人の死生を知っており、聖君は事の成敗(是非)を明らかにします。利があれば行い、害があれば捨て、疑わしいものは少し試してみます。これらは舜・禹が復活して生き返ったとしても、改めることはできないのです。とても重大な問題(宣太后・穣侯に関すること)については、私は敢えてこの書には記しません、浅薄な意見は王に聴かせるには足りません。思うに王が今まで私を放置していたのは、私が愚かで王のお心に適わなかったからでしょうか。それとも私を推薦した人物(王稽)が賤しいので採用する必要がないと思われたのでしょうか。そのどちらでもなければ、どうかご遊覧の暇を頂いて、拝顔の栄誉を賜りますようにお願いします。一語でも効果のない言葉がありましたら、その時は王の誅罰に服します。」

秦の昭王はこの書を読んで大いに悦び、王稽に謝り、駅伝車を走らせて范雎を召し出した。

こうして范雎は離宮で王に謁見できることになったが、その時になると知らないふりをして、永巷(宮中の路地)の中に入り込んだ。王がいらっしゃると宦者(かんじゃ)が怒って追い払おうとして言った。「王様のおでましであるぞ。」 范雎は偽って宦者に言った。「秦にどうして王などいるだろうか。秦にはただ太后と穣侯がいるだけだ。」 この言葉で昭王を感じさせ怒らせようとしたのである。

昭王が到着して、范雎が宦者と言い争いをしているのを聞くと、宮中に招いて謝って言った。「私(寡人)はもっと前に先生の教えをこの身に受け容れるべきであった。たまたま義渠(ぎきょ,西戎の国名)の問題が急を告げていたので、私は朝夕、太后の指示を受けねばならず時間がなかったのである。今、義渠の問題が終わったので、私は先生の教えを聞くことができる。私は密かに不敏だと思っていたのだが、謹んで主客対等の礼を取ることにします。」

范雎は辞退した。この日、范雎の謁見の様子を見た群臣は、みんな粛然として顔色を変え、容儀を正さない者はなかった。

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秦王は左右の者を下がらせた。宮中は空で人がいなかった。秦王はひざまずいて尋ねて言った。「先生はどんなことを寡人(私)に教えてくれるのか。」 范雎は「はい、はい。」とだけ言った。暫くして、秦王は再ひざまずいて尋ねた。「先生はどんなことを寡人(私)に教えてくれるのか。」 范雎はまた、「はい、はい。」とだけ言った。このような事が三度あって、秦王はひざまずいて言った。「先生はどうしても寡人には教えてくれないのか。」 范雎は言った。「決して教えないのではありません。私は『昔、太公望呂尚が周の文王に出会った時には、その身分は漁師で渭水のほとりで釣りをしていた。このようになったのは、二人の交流が疎遠だったからである。そこで語り合って、文王が呂尚の言葉を受け入れて太師に立て、同乗させて連れ帰ったのは、呂尚の言説が深遠だったからである。それ故に、文王は遂に呂尚の力によって功業を成し遂げ、天下の王者になったのである』と聞いています。

もし初めに文王が呂尚を疎んじて、深遠な部分まで語り合わなければ、周には天子の徳がなく、文王・武王もその王業を成し遂げることはできなかったでしょう。今、臣(私)は外国からやってきた臣下であり、王との交わりは疎遠です。しかも申し上げたいと思っていることは、すべて王の誤りを是正しようということであり、王の骨肉の血族に関することなのです。愚忠を尽くしたいとは願っていますが、まだ王の心が分かっていません。これが王が三度もご質問をして下さったのに、敢えてお答えしなかった理由なのです。私は刑罰を受けることを恐れて、敢えて言わないのではありません。今日申し上げれば、明日は誅罰に伏すだろうと知っていますが、それでも私は決して避けようとは思いません。大王が本当に私の言葉を実行してくださるならば、死も私の苦痛にするに足りず、流亡も私が心配するには足りず、身体に漆を塗って癩病患者を装い、髪を振り乱して狂人を装っても、私の恥とするには足りません。

たとえ五帝(黄帝・センギョク・コク・堯・舜)のような聖人でも死に、三王(夏の禹王・慇の湯王・周の文王と武王)のような仁人でも死に、五伯・五覇(斉の桓公・宋の穣侯・晋の文公・秦の繆公・楚の荘王)のような賢人でも死に、烏獲・任鄙(うかく・じんぴ)のような大力の士でも死に、成荊・孟賁・王慶忌・夏育(せいけい・もうほん・おうけいき・かいく)のような勇士でも死にます。死は、どうしても人が免れることのできない所です。必ずそうあるべき趨勢(死)に処して、それで少しでも秦の過ちを補うことができるのであれば、これこそ私の大いに願う所です。また何を憂う必要があるでしょうか。伍子胥(ごししょ)は楚を脱出する時、袋の中に隠れ、車に乗せられて昭関(しょうかん)を出て、夜は歩いて昼は隠れ、陵水(りょうすい)に着いた時には、口に入れる食物もなく、呉の市場では膝で擦って歩き腹ばいで進み、頭を地に付けて肌脱ぎになり、腹を鼓のように叩いたり横笛を吹いたりして、乞食にまでなりましたが、遂には呉国を興隆させ、呉王闔閭(こうりょ)を天下の覇者にしました。

私に伍子胥のように謀略を尽くさせて下さるならば、たとえ囚われの身になり、王に再び謁見することができなくても、私の言説が実行されるのですから、また何を憂う必要があるでしょうか。箕子(きし,慇末期の賢人)や接輿(しょうよ,春秋時代の楚の隠者)は、身体に漆を塗って癩病患者を装い、髪を振り乱して狂人を装うようなことまでしましたが、それぞれの君主に利益を与えることはできませんでした。もし、臣(私)が箕子と同じような行動をさせられても、私自身が賢明と認めた君主の過ちを補うことができるでしょう。これは、私の大きな栄誉なのです。何を恥じることがあるでしょうか。

ただ私が恐れていることは、私の死後に、天下の人士が私が忠義を尽くしても誅殺されたのを見て、それによって口を閉じて足をつつんで、敢えて秦に向かおうとしなくなるということなのです。もし、王が上は太后の威厳を恐れ、下は姦臣のへつらいや偽りに惑い、奥深い宮殿の中だけにいて、お守りの手を離れず、生涯にわたって迷い惑って、姦悪な臣下を明らかにしなければ、大は宗廟(そうびょう)が滅んで覆り、小は王の身が孤立して危なくなるでしょう。これが私の恐れている所なのです。私が困窮して恥辱を蒙ったり、死刑や流亡の患難に遭うことは、私は決して恐れてはいません。私が死んで秦が治まるのであれば、私の死は生よりも優れたものになります。」

秦王はひざまずいて言った。「先生は何ということをおっしゃられるのか。そもそも、秦は僻遠(へきえん)の国であり、寡人(私)は愚かな不肖の者である。先生はかたじけなくもここに来て下さった。これは天が私のために先生を煩わせ、わが先王の宗廟を存続させようとしているのである。私が先生の教えを受けることができるのは、天が先王を嘉して、その孤児である私を見捨てていないからである。そうであるのに、どうして先生はそんなことをおっしゃられるのか。事の大小なく、上は太后のことから、下は大臣のことまで、すべて私に教えてもらいたい。私を疑わないで欲しい。」 范雎は拝礼して、秦王もまた拝礼した。

范雎は言った。「大王の国は四方を天然の要塞で固められています。北には甘泉(かんせん,陝西省の山の名前)・谷口(こくこう,陝西省)があり、南には涇水(けいすい)・渭水(いすい)を帯び、隴(ろう)・蜀(しょく)を西にして、函谷関・商阪(しょうはん,陝西省)を東にしています。勇猛な精兵は数百万、戦車は千乗、有利ならば国外に出て攻め、不利なら国内で守ります。これは王者の地なのです。民は私闘において臆病であり、公戦(戦争)においては勇敢です。これは王者の民なのです。王はこの二者を併せ持っているのです。そもそも秦兵の勇と車騎の多さをもってすれば、諸侯を治めることができます。譬えば、韓盧(かんろ,犬の名前)を馳せて足の悪い兎を捕まえさせるようなもので、覇王の功業を成し遂げることができるのです。しかし、群臣はその官職に堪えず、今に至るまで函谷関を閉ざすこと十五年、敢えて兵を出して山東(関東)を伺わないのは、穣侯が秦のために謀るのに不忠であり、大王の計略にも失点があるからです。」

秦王はひざまずいて言った。「どうか私にその計略の失点について聞かせてもらいたい。」

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左右に密かに聴き耳を立てている者が多い感じだったので、范雎は話が漏れるのを恐れて(太后・穣侯の専横についての意見が漏れるのを恐れて)、国内のことは言わずに、まず国外のことを言って、王の様子を観察しようとした。そこで進み出て言った。「穣侯が韓・魏を越えて斉の綱寿を攻めようとするのは、良計ではありません。少々の出兵では斉を損傷するには足りず、多く出兵させれば秦に害があります。私が考えるには王の計略としては、秦からは少しだけ出兵して、韓・魏には全軍を出させようとしているようですが、それは不義(正義のないこと)です。今、同盟国の斉が親しくしないからといって、人の国を越えて攻めるのはいかがなものでしょうか。計略において疎略なところがあります。かつまた、斉のビン王は南の楚を攻めて、軍を破って将軍を殺し、更に千里四方も領土を広げようとしましたが、結果として斉が一尺一寸の土地さえ得ることができなかったのは、斉が土地を得たいと望まなかったからでしょうか。

いやそうではなく、形勢によって地を得ることができなかったのです。諸侯は斉が疲弊して、君臣の間に不和があるのを見ると、兵を興して斉を伐ち、大いにこれを破り、斉の士は辱められ、兵はくじかれました。みんなその斉の王を咎めて、『誰がこの計略を立てたのですか?』と申し上げたところ、王は『文子(孟嘗君)が立てた。』とおっしゃったので、大臣は乱を起こして、文子は出奔しました。斉が大いに破れた理由は、楚を伐つことで韓・魏を肥やしたことにあります。これはいわゆる『賊に武器を貸して、盗人に糧食を与える』というものなのです。王は遠国と交わって近国を攻めるにこしたことはありません。そうすれば、寸地を得れば王の寸地になり、尺地を得てもまた王の尺地となります。今、こうした計略を捨てて、遠国を攻められるのは、誤りではございませんか。

昔、中山(ちゅうざん)の国は領地は五百里四方でした。趙がこの中山国を単独で併合し、功成り名上がり、利益も得ましたが、天下の国々で趙を妨害できるものはありませんでした。そもそも今、韓・魏は中原に位置し、天下の枢要の地を得ています。王が覇者になることを望むならば、必ず中原の国々と親しんで、自ら天下の枢(かなめ)となり、楚・趙を威圧してください。楚が強ければ趙を味方につけ、趙が強ければ楚を味方にしてください。楚・趙がみんな味方になれば、斉は必ず恐れるでしょう。斉が恐れれば、必ず辞を低くして幣物(へいもつ)を重くして秦に仕えるでしょう。斉が味方になれば、韓・魏も手に入れることができるでしょう。」

昭王は言った。「私は久しく魏に親しもうとしている。しかし、魏は変化が多くて信じづらい国で、私は親しむことができない。魏と親しくするにはどうすれば良いのか?」 范雎は答えて言った。「王は辞を低くし幣物を重くして、魏に仕えてください。それでダメなら、土地を割いて賄賂を送ってください。それでもダメなら、兵を上げて伐ってください。」 昭王は言った。「私は謹んでその教えに従う。」 そこで范雎を客卿(かくけい,外国人の大臣)に任命して、軍事について語り合い、遂に范雎の謀略を取り上げて、五大夫(爵名)の綰(わん)を派遣して魏を伐ち、懐(かい)を抜いた。その二年後、刑丘(けいきゅう,河南省)を抜いた。

客卿の范雎がまた昭王に言った。「秦・韓の地形は刺繍のようにお互いに交錯しています。秦にとっての韓の存在は、譬えば木に蠹(と,木食い虫)があり、人に内臓疾患があるようなものです。天下に変事がなければ良いのですが、天下に変事が起これば、秦の患禍の原因は韓よりも大きなものはありません。ですから、王は韓を味方につけておくにこしたことはありません。」 昭王は言った。「私はもとより韓を味方にしておきたいのだが、韓が聴き入れてくれないのだ。どうすれば良いのか?」 范雎は答えて言った。「韓はどうして秦の味方になることを聴き入れずにいられるでしょうか。もし王が兵を下してケイ陽を攻められれば、鞏(きょう)・成皋(せいこう,河南省)への道は不通になります。北の太行(たいこう)の道を切断すれば、上党(じょうとう,山西省)の軍は南下できなくなります。つまり、王が一度、兵を興してケイ陽をお攻めになられれば、韓の国は三つに分断されるのです。韓もどうしても滅びると知れば、どうして秦の言うことを聴き入れずにいられるでしょうか。もし韓が聴き入れれば、それによって、覇業を達成するための考慮ができるでしょう。」 昭王は言った。「よろしい。」 そして使者を韓に出そうとした。

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