『史記 淮陰侯列伝 第三十二』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 淮陰侯列伝 第三十二』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 淮陰侯列伝 第三十二』のエピソードの現代語訳:1]

淮陰侯韓信(わいいんこう・かんしん)は淮陰(江蘇省)の人である。はじめ布衣(ほい、無位無官)の人だった時、貧乏で何の行いもなかったので、推薦され選ばれて官吏になることもできず、また商売で生計を立てることもできず、常に人に寄って飲食をした。そのために彼を嫌う者が多かった。

かつて下郷(かきょう,淮陰の属県)の南昌の亭長(宿場の長)の家にしばしば寄食したことがあり、数ヶ月すると亭長の妻が韓信を煩わしく思い、早朝に飯を炊いて寝床の中で食事を済ませて、食事の時間に韓信が行っても、食事の用意をしなかった。信はその意図を知って怒り、遂に絶交して立ち去った。

信が淮陰城下の淮水(わいすい)で釣りをしていた時、たまたま老婆たちが水に錦を漂して(さらして)いたが、その中の一人が信が飢えているのを見てとって、信に飯を食べさせてあげた。その施しは錦を漂している間の数十日にわたって続いた。信は喜んで、老婆に言った。「私は必ずいつかあなたに厚く恩返しをしたいと思います。」 老婆は怒って言った。「大の男が自分で食べられもしないくせに、私は哀れんであなたに食事をあげただけだよ。どうして恩返しなど望むものか。」

淮陰の屠殺者仲間の若者の中で、信を侮る者がいて言った。「お前は身体が大きくて、好んで刀剣を帯びているが、内心は臆病なだけなんだろう。」 更に信を辱めて言った。「信よ、死ねるなら俺を刺してみろ。死ねないのならば、俺の股の下をくぐれ。」 すると信はまずその若者を熟視して、首を垂れて四つん這いになり股の下をくぐったのである。市中の人はみんな信を嘲笑して、臆病者だと思った。

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項梁(こうりょう)が淮水を渡るに及んで、信は剣を杖ついてこれに従い、その麾下(きか)にいたのだが名前を知られていなかった。項梁が敗れると、項羽に属したが、項羽は信を郎中(ろうちゅう)に任じた。信はしばしば項羽に献策したが、項羽は用いなかった。漢王が蜀(しょく、四川省)に入ると、信は楚(項羽)から逃亡して漢(劉邦)に帰属したが、まだ名前を知られることはなかった。連敖(れんごう,低い官名)に任ぜられていた頃、法に連座して斬罪に処せられることになった。

その仲間の十三人は既に斬られていて、次の順番が信に回ってきた。信は仰ぎ見て、たまたま滕公(とうこう,夏侯嬰・かこうえい)を見つけて言った。「主上(漢王)は天下の大業を成し遂げようとはお思いにならないのですか。なぜ壮士を斬られるのですか?」 滕公はその発言を非凡とし、その容貌を壮士と認め、釈して(ゆるして)斬らなかった。信と語り合って大いに喜び、信について主上に言上した。主上は信を治粟都尉(ちぞくとい,穀物・貨幣を司る官位)に任じたが、まだ非凡な人物とまでは思わなかった。

信はしばしば蕭何(しょうか)と語ったが、蕭何は信を非凡な人物として認めた。(漢中王に封ぜられた)漢王は都の南鄭(なんてい,陝西省)に赴いたが、その途中で逃亡する諸将は数十人にのぼった。韓信も、蕭何らがしばしば推薦してくれたのに主上は自分を登用してくれないと考えて逃亡した。蕭何は韓信が逃亡したと聞くと、主上に話もせずに、自ら信を追いかけた。ある人が主上に言った。「丞相の何(か)が逃亡しました。」

主上は大いに怒り、左右の手を失ったように失望した。一、二日経つと、何がやって来て拝謁した。主上は怒りかつ喜んで、何を罵って言った。「お前が逃亡したのはなぜなのか?」 何は言った。「私は逃亡したのではございません。逃亡した者を追いかけていたのです。」 主上は言った。「お前が追いかけていたのは誰だ?」 答えて言った。「韓信です。」 主上はまた罵って言った。「将軍たちの中で逃亡した者は十人以上も数えるのに、お前は誰ひとり追いかけなかった。信だけを追いかけたというのは詐り(いつわり)だろう。」

蕭何は言った。「あの将軍たちぐらいの人物なら簡単に見つけられます。しかし信ほどの人物は国士無双(こくしむそう,国に二人とはいない優れた士)です。王がずっと漢中王で満足されるのであれば、信にこだわる必要はありません。しかしどうしても天下を争おうとお望みであれば、信でなくては共に事を図れる者はございません。王の方策がいずれに決めるかという問題なのです。」 漢王は言った。「私も東方に出撃して、天下を争いたいと望んでいる。どうして鬱々として久しくこの地に留まっているだろうか。」 何は言った。「王の計略がどうしても東方に出撃したいのであれば、信を登用されてください。そうすれば信は留まるでしょう。登用されなければ、信は逃亡してしまうだけのことです。」

漢王は言った。「お前のために、信を将軍に登用しよう。」 蕭何は言った。「将軍にされただけでは、信はきっと留まらないでしょう。」 漢王は言った。「それでは、大将にしよう。」 何は言った。「それで幸いでございます。」 こうして王は信を召して大将に任じようとした。蕭何は言った。「王は元々傲慢で、礼を欠いておられます。今、大将を任命されるのに、小児を呼びつけるようなことだとしか思っておられません。これが信が逃げ去る所以なのです。王が必ず信を任命したいのであれば、吉日を択び、斎戒し、壇場を設けて、礼を整えてこそ、任命することができましょう。」 王はこれを聴許した。将軍たちはみんな喜び、それぞれ自分が大将にしてもらえるのだと思った。大将を任命する時になると、それが韓信だったので、全員が驚いた。

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信の任命式が終わって、座に着いた。漢王は言った。「丞相がしばしば将軍を推薦したが、将軍はどのような計策を寡人(私)に教えてくれるのだろうか?」 韓信は任命を謝してから、王に問うた。「今、東に向かって天下の権を争われるとしたら、その相手は項王ではないでしょうか?」 漢王は言った。「その通りだ。」 韓信は言った。「大王ご自身のお考えでは、勇猛や仁強において、項王とどちらが優れていると思われますか?」 漢王は黙然としていたが、しばらくしてから言った。「私は項王に及ばない。」

韓信は再拝し、祝福して言った。「私も大王は項王に及ばないと思います。しかし私はかつて項王に仕えたことがあるので、項王の人となりについて申し上げたいと思います。項王が怒気を抱いて叱咤すると、千人がみなひれ伏すほどですが、賢将を信頼して任せるということができません。これではただの匹夫の勇に過ぎません。項王が人に接する時には恭敬で慈愛があり、言葉遣いも柔らかいもので、人が病気をすると涕泣(ていきゅう)して自分の飲食を分け与えます。しかし、人を使用してその人に功績があり、当然に封爵すべき場合には、封爵の印を授けようとしつつも、遅疑してその印を手で弄び、印が摩滅するほどになってもまだ授けたくないような状態なのです。これでは、婦人の仁に過ぎません。

項王は天下に覇を唱えて諸侯を臣にはしましたが、関中(かんちゅう,秦の地)に居住せずに彭城(ほうじょう,江蘇省)に都を置きました。また義帝との盟約に背き、自分の親愛に応じて諸侯を王に封じましたがそれは不公平なものでした。諸侯は項王が義帝を遷して江南に逐い払うのを見ると、みな帰国してその旧主を逐い払い、自ら善い土地の王になりました。また項王の軍が通過したところで、損なわれたり滅ぼされたりしなかった所はありません。天下は多く項王を怨み、人民は親しまず心服せず、ただその威強に脅かされているだけなのです。だから項王は名は覇者であっても、実際には天下の心を失っています。

それ故、その強威は弱めやすいのです。今、大王が本当にこの項王のやり方とは反対に、天下の武勇の士を信頼なされば、誅伐できない相手などいるでしょうか。天下の城邑を功臣の封地としてお与えになれば、心服しない者がいるでしょうか。正義の戦いを標榜し、東方に帰りたいと願う将士を従えられれば、敗北して散らない敵がいるでしょうか。かつまた、三秦の王である章邯(しょうかん)・司馬欣(しばきん)・董翳(とうえい)は秦の将軍として秦の子弟を率いること数年、その間に戦死させ、逃亡させた数は、とても数え切れないほどです。またその衆兵を欺いて諸侯に降服しましたが、新安(河南省)に着いた時、項王が秦の降服した兵二十余万を詐って穴うめ(坑)にして、ただ章邯(しょうかん)・司馬欣(しばきん)・董翳(とうえい)だけが難を逃れることができたのです。

秦の父兄はこの三人を怨み、その怨みは骨髄に徹しています。今、楚は強いて威力をもってこの三人を王にしていますが、秦の民で三人に愛情を抱いている者はいません。しかし、大王は武関(ぶかん,陝西省)から関中に入られると、ほんの少しも危害をお加えにならず、秦の苛法(かほう)を除いて、秦の民に法三章を約束されました。秦の民で、大王が秦の王になられることを望まない者はいませんでした。諸侯の間の約束では、大王は当然、関中の地で王になられるはずでした。関中の民はみんなこのことを知っております。だから、大王が項王のために正当な職分を失って漢中に入られますと、秦の民はこれを恨みに思ったのです。今、大王が大挙して東に進めば、三秦の地は檄文を伝えるだけで平定できるでしょう。」

こうして漢王は大いに喜び、信を見つけ出したのが遅かったとさえ思った。遂に信の計を聴き入れて、将軍たちの攻撃目標を割り当てた。

漢の元年(紀元前206年)八月、漢王は兵を挙げて東の陳倉(ちんそう,陝西省)に出撃し、三秦を平定した。漢の二年(前205年)、函谷関を出て、魏の黄河以南の地を手に入れ、韓王・殷王らはみな降服した。斉・趙の兵を合わせて、共に楚を撃った。四月、彭城に至ったが、漢軍は敗散して引き返した。信は再び兵を取りまとめて漢王とケイ陽(河南省)で会し、また撃って楚軍を京・索の間で破った。これによって、楚軍はどうしても西進することができなかった。

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