『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』のエピソードの現代語訳:1]

張耳(ちょうじ)は、大梁(だいりょう,魏の国都)の人である。若い頃、その時にいた魏の公子・毋忌(むき,信陵君)の食客になったことがある。張耳はその後亡命して外黄(がいこう,河南省)に遊んだ。外黄の資産家の娘はとても美人で、日雇い主(雇用主)の嫁となったが、その夫の元を逃げ出して、父の賓客に身を寄せていた。その賓客は以前から張耳を知っていて、女に言った。「どうしても賢明な夫が欲しいのであれば、張耳に従いなさい」 女は聴き入れた。

そこで賓客は前夫との離婚を決めてあげ、張耳に嫁入りさせた。張耳は亡命の身だったが、女の実家が十分な俸給(持参金)を出してくれたので、千里の遠方からも賓客を招くことができた。魏に仕官して外黄の令(長官)になった。このことによって、賢者としての名声がますます高まった。

陳余(ちんよ)も大梁の人である。儒学を好み、しばしば趙(ちょう)の苦ケイ(こけい,河北省)に遊んだ。そこの富豪である公乗氏(こうじょうし)が女(むすめ)を彼に妻わせた(めあわせた)、それは陳余が凡庸な人ではないと知っていたからである。陳余は年少の頃から、父のようにして張耳に仕え、二人はお互いに刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)を結んだ。

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秦が大梁(魏)を滅ぼした時、張耳は外黄に家を構えていた。高祖(前漢の創始者の劉邦)がまだ一庶民だった時、しばしば張耳のところで遊び、客として数ヶ月を過ごしたことがある。秦は魏を滅ぼしてからの数年間、張耳と陳余の二人が魏の名士であったことを聞いて知ると、「張耳を捕えた者には千金、陳余を捕えた者には五百金」と賞金をかけて探し求めた。張耳と陳余は姓名を変えて、共に陳(ちん,河南省)に赴き、村里の門番になって自活していた。

二人が対座していると、村里の役人が過失があったとして陳余を笞で打った。陳余は起き上がろうとしたが、張耳は陳余の足を踏んで、笞を受けさせた。役人が立ち去ると、張耳は陳余を桑の木の下に連れていって責めて言った。「はじめ私とあなたが話し合ったのはどんなことであったか?今、小さな辱めに堪えられず、たった一人の小役人を相手に死のうとするのか?」 陳余もその通りだ(自分が間違っていた)と思った。秦は詔書を下して、賞金をかけて二人を探し求めた。二人は逆に門番の役目を利用して、その旨を村里中に知らせた。

陳渉(ちんしょう)が斬(き,安徽省)で秦に反乱を起こしたが、陳に入った時には、兵力は数万になっていた。張耳・陳余は陳渉に面謁を求めた。陳渉とその左右の側近は、日頃しばしば、張耳と陳余の賢明さについて聞いていたが、まだ会ったことがなかったので、会うと大いに喜んだ。

その時に、陳の豪傑や長老が陳渉に説いた。「将軍は自ら甲冑を身に付け武器を持ち、士卒を率いて暴虐な秦を誅し、楚の社稷(しゃしょく)を再興し、亡びた国を存立させ絶えた国を継続させてきました。その功徳は王になっても良いほどのものです。それに天下の諸将に総帥として臨まれるには、王でなければなりません。どうか願わくば立って楚王におなりください。」 陳渉はこのことを二人に問うた。

二人は答えて言った。「そもそも秦は無道を行い、人の国家を破り、人の社稷を滅ぼし、人の子孫を絶ち、万民の力を疲弊させ、万民の財物を空にしました。そこで将軍は目を怒らせ勇気を奮って、万死に一生をも顧みない計略を打ち出し、天下のために残虐な賊(秦)を除こうとしておられます。今、陳に着いたばかりで王になられるのは、天下に私心を示してしまうことになります。どうか将軍は王にはなられず、急遽、兵を率いて西進し、使者を派遣して六国の後を立ててください。これは将軍のために味方を作り、秦のためには敵を増やすことになります。敵が多ければ力は分散して弱くなり、味方が多ければ兵力は強大になります。こうして野には刃をとって敵対する者もなく、県には籠城して反抗する者もなく、暴虐な秦を誅滅してその国都である咸陽(かんよう)に拠って、諸侯に号令することができます。諸侯は秦に滅ぼされたのに復興できるのですから、将軍の徳に服するでしょう。こうやって帝業を成し遂げることができるのです。今、将軍がただ陳の地で王となるだけであれば、天下の人々は将軍には従わないでしょう。」

陳渉は聴き入れず、遂に立って陳王となった。

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陳余はまた陳王に言った。「大王は梁(魏)・楚の兵を集めて西進しようとしておられ、その目的は函谷関(かんこくかん)からの侵入にありますが、まだ黄河の北の地を収めていません。臣(私)はかつて趙に遊歴し、その地の豪族や地形について知っています。どうか私に奇兵をお授けください、北の趙の地を攻略してみせます。」 こうして陳王は以前から親交のあった陳人(ちんひと)の武臣(ぶしん)を将軍とし、邵騒(しょうそう)を護衛軍の将とし、張耳と陳余をそれぞれ左校尉・右校尉(将軍補佐官)に任じて、兵三千人を与え、北の趙の地を攻略させた。

武臣らは白馬津(はくばしん,河南省)から黄河を渡り、諸県についてその地の豪族たちに言った。「秦は乱れた政治と残虐な刑罰を行い、天下を損なうこと数十年にものぼる。北には長城の夫役(ぶやく)があり、南には五嶺(ごれい,湖南省・広東省の五山)の守備役がある。内外ともに騒然として万民は疲弊しているのに、重い人頭税を取り立てて軍事費に当てている。財物は乏しく力は尽き果て、民は生をかこっている。さらに苛法(かほう)・峻刑(しゅんけい)を課して、天下の父子を不安な気持ちに陥れている。

陳王は勇気を奮って天下のために先駆けて秦に逆らい、楚の地で王となったのだが、その二千里四方において陳王に応じない者はない。家々は自ら怒り、人々は自ら戦い、各々がその怨みを報いてその讎(あだ)を攻め、県では令・丞(県の官名)を殺し、郡においては守・尉(郡の官名)を殺した。今、陳王は大楚の国を建て陳の地で王となったのである。そして呉広(ごこう)・周文(しゅうぶん)に命じて、兵百万を率いて西のかた秦を撃たせている。この時に際して封侯(ほうこう)の業を成就しない者は、優れた豪傑ではない。諸君、試しに共に考えてみよう。そもそも、天下が心を同じくして秦に苦しんでから久しい。天下の力によって無道の君を攻め、父兄の怨みを報い、地を割き取って封土を有する業を成し遂げる。これは士たるものにとって二度とはない好機である。」

豪傑たちはみんなその通りだと思った。こうして進むにつれて兵を収めて数万人を得た、武臣を尊称して武信君(ぶしんくん)と呼ぶようになった。趙の十城邑を下したが、それ以外の城邑は籠城して守り降伏しなかった。

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