『史記 李斯列伝 第二十七』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 李斯列伝 第二十七』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 李斯列伝 第二十七』のエピソードの現代語訳:2]

秦王は他国人(客)の追放令を廃止し、李斯を元の官職に復させ、その計謀を用いるようになった。李斯の官位は廷尉(ていい,刑罰・監獄を司る官職)に進んだ。それから二十余年、秦は遂に天下を統一し、君主を尊んで皇帝を称し、李斯を丞相(じょうしょう,首相)にした。李斯は郡県の城壁を破壊し、武器を溶かして再び使用しないことを示した。また、天下にわずかな封領をも置かず、皇帝の子孫を王に立てたり、功臣を諸侯に封じたりしなかったが、これは後世において内戦の憂患を無くそうとしたからである。

始皇の三十四年(前213年)、咸陽宮で酒宴が開かれ、博士僕射(はかせぼくや,博士の長)周青臣(しゅうせいしん)らが始皇の威徳を褒めたたえた。斉人の淳于越(じゅんうえつ)が進み出て諌めた。「臣(私)は『殷・周の王朝が千余年にわたって存続したのは、子弟や功臣を各地に封じて王室の支えにしたからである』と聞いております。今、陛下は海内(かいだい)を保有しておられますが、陛下の子弟は庶民であります。もし突然、斉の田常(でんじょう)や晋の六卿のような権力を専らにして国を奪おうとする逆臣が出た時、藩屏(はんぺい)となる家臣の輔弼(ほひつ)がなければどうして助け合えるでしょうか?何事においても、古代を手本にしないで長久で有り得たものは、聞いたことがありません。今、青臣らは御前で諂い(へつらい)、陛下が過ちを重ねるようにしています、彼らは忠臣ではありません。」

始皇はこの建議を丞相に下して考えさせた。丞相は淳于越の説が謬っている(あやまっている)として退け、次のように上書した。「昔は天下が混乱していて、それを統一できる者はいませんでした。それ故に諸侯が並んで興ったのですが、昔の言説はみな太古の理想を言い立てて当時の現状をけなし、虚しい言葉を飾り立てて実情を乱し、人々は私的に学んだだけの所を善として、時の君主の政策を誹謗しました。今、陛下は天下を統一し、物事の白黒を分別されましたので、みんな唯一の帝である陛下を尊んでいます。それなのに、私的に学んでいる者たちは、法律・文教の制度を誹謗し、政令が下ったと聞くと、各々が私的に学んだことでもって議論し、家にあっては心に誹り(そしり)、外に出ては巷に論議し、主君を誹って名誉とし、異論を唱えて高いとし、傘下の連中を率いて誹謗をしています。

これらの者を禁圧しないと、上においては主上の権勢が下降し、下においては徒党が成り立ちます。禁圧するのが得策でしょう。文学・詩書(『詩経』『書経』)百家の書物を所有している者にはそれらの書物を捨てさせましょう。命令を受けてから満三十日が経過しても棄てない者には、黥(いれずみ)の刑を施して城旦(じょうたん,早朝からの築城の労役)にしましょう。棄て去らなくても良い書物は、医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業の書物に限られます。もし学びたいと欲する者がいれば、官吏(役人)を師として学ばせましょう。」

始皇帝は丞相の上書を裁可して、詩書・百科の書物を没収して棄て去り、万民を愚にして天下の誰も古代に照らして現代を誹謗する者がないようにした。法度を明らかにして律令を定めることは、みんな始皇帝から始まったのである。文字を統一して、天下の遍く所に離宮・別館を築造した。翌年、始皇帝はまた天下を巡幸し、四方の蛮族を伐ち払った。李斯はこれら全てに関与して力を有していた。

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李斯の長男の由(ゆう)は、三川(さんせん)の太守になった。また息子たちはみんな秦の公主(内親王)と結婚し、娘たちはことごとく秦の公子に嫁した。三川の太守の李由が休暇を得て咸陽に帰ってきた時、李斯は家で酒宴を開いた。すると百官の長がみな集まって祝福し、李斯の邸の門内の広庭に留められた車騎は数千にのぼった。李斯は嘆息して言った。

「あぁ、私は荀卿(じゅんけい)から『物事は盛んになりすぎるのを禁じなければならない』と聞いたことがある。そもそも私は上蔡出身の布衣(無官の庶民)であり、村里の民に過ぎなかった。主君はそのような私の非才にお気づきになられず、ここまで私を抜擢してくださった。当今、人臣の位において、私の上にいる者はいない。まさに富貴が極まったというべきである。物は極まれば衰える、私の行く末はどうなるか分からない。」

始皇三十七年(前210年)十月、行幸して会稽(浙江省)に遊び、海岸を北上して、瑯邪(ろうや,山東省)に至った。丞相李斯・中車府令(ちゅうしゃふれい,御車係の長)趙高(ちょうこう)が、符璽令(ふじれい,印璽・割符を扱う官)の職務を兼ねて随行した。始皇には二十余人の子がいて、長子の扶蘇(ふそ)はしばしば直諫(ちょっかん)したので主上はうるさく思って都から出し、軍を上郡(じょうぐん,陝西省)で監督させていた。蒙恬(もうてん)がその将軍を務めた。末子の胡亥(こがい)は主上に寵愛され、行幸のお供を請うて、主上は許した。それ以外の子で随行した者はいなかった。

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その年の七月、始皇帝は沙丘(さきゅう,河北省)まで進んで病気が重くなり、趙高(ちょうこう)に命じて次のような書面を作らせ、公子扶蘇(ふそ)に賜うた。「軍を蒙恬に委嘱し、咸陽に帰ってわが遺骸を迎え、葬儀を行うように」 書面は封印されたが、まだ使者に授けられないうちに、始皇帝は崩御した。その書面と印璽はみな趙高の手元にあった。公子胡亥、丞相李斯、趙高および始皇帝に寵愛された宦者5~6人だけが、始皇帝の崩御を知っており、その他の群臣はみな知らなかった。

李斯は主上が都の外で崩御し、正式の太子がいないことを考慮して、崩御を秘密にした。始皇帝の遺体を温涼車(おんりょうしゃ,風が通りやすい窓のある中の温度をある程度調節できる豪華な車)の中に置いて、百官が事を奏して、食事を差し上げ、その度に宦者が温涼車の中から奏事を(始皇帝の代わりに)裁可した。趙高はこの状況につけ込んで、扶蘇に賜うた始皇帝の印璽と書面を留め、公子胡亥に言った。「主上は崩御されましたが、詔(みことのり)で諸公子を王に封じようとはせず、ただご長子の扶蘇様にのみ書面を賜いました。ご長子が到着されれば、すぐに立って皇帝となられ、あなたには寸尺の地も無くなるでしょう。どうなされますか?」

胡亥は言った。「当然のことである。私が聞くところでは、智が明らかな君主は臣を知り、智明らかな父は子を知るという。今、父は生命を失われたが、諸子を封じようとはされなかった。子として何かいうべきことがあるだろうか。」 趙高は言った。「違います。ただ今、天下の権を握るも失うもあなたと私と丞相次第なのです。どうか考えられてください。また人を臣とするのと人に臣とされるのと、人を制するのと人に制せられるのとは、全く同じお話などではないのです。」 胡亥は言った。「兄は廃して弟を立てるのは不義というものである。父の詔を奉ぜず、露見して死刑になるのではないかと畏れるようなことをするのは、不孝というものである。自分の才能が浅薄なのに強いて人の働きで事を成すのは、不能というものだ。この三者は逆徳であって、天下は服従せず、身は危殆に瀕し、社稷(国)は断絶してしまうだろう。」

趙高は言った。「私は『殷の湯王、周の武王はそれぞれ君主を殺したが、天下は義と称して不忠とはしなかった。衛の君主は父を殺して位についたが、衛の国人はその徳を戴き、孔子もこれを春秋に著したが(衛にはこのような事実はなく趙高の虚言の可能性があるという)、不孝とはしなかった』と聞いております。そもそも『大事を行うには小さな謹慎など問題でなく、盛徳ある者は辞譲などしない』ものです。村里にはそれぞれ優れた所があり、百官は職務を同じくしません。ですから、小事を顧みて大事を忘れるならば、後に必ず害があり、孤疑(こぎ)してのろのろすれば、後に必ず悔いがあります。断じて敢行すれば、鬼神もこれを避け、後に成功があります。どうか遂行なさってください。」

胡亥は嘆息して言った。「今、崩御もまだ発表されず、喪礼もまだ終わっていない。どうしてこの事について丞相に同意してもらえるだろうか。」 趙高は言った。「今こそ好機です、これを外せば相談しても間に合いません。急いでください、ただ遅れることだけが恐ろしい(危ない)のです。」

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