『史記 呂不韋列伝 第二十五』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 呂不韋列伝 第二十五』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 呂不韋列伝 第二十五』のエピソードの現代語訳:2]

秦王は即位一年で薨去(こうきょ)して、孝文王(こうぶんおう)と諡(おくりな)された。太子の子楚(しそ)が代わって即位した。これが荘襄王(そうじょうおう)である。荘襄王は母にしたところの華陽后を華陽太后(かようたいごう)とし、実母の夏姫を尊んで夏太后(かたいごう)とした。荘襄王の元年、呂不韋を丞相に任じ、文信侯(ぶんしんこう)に封じて、河南洛陽(かなんらくよう)の十万戸の地を所領として与えた。

荘襄王は即位三年で薨じ、太子の政が即位して王になった。呂不韋を尊んで相国に任じ、仲父(ちゅうほ,父に次ぐ人)と呼んだ。秦王・政は年少であった。その母である太后は、時々、密かに呂不韋と私通していた。呂不韋の家の召使は一万人にも及んでいた。

当時、魏に信陵君(しんりょうくん)、楚に春申君(しゅんしんくん)、趙に平原君(へいげんくん)、斉に孟嘗君(もうしょうくん)があり、みんな志のある人士にへりくだり、賓客を集めて互いに競っていた。呂不韋は秦が強大であるのに、これらの君子に及ばないことを羞じて(はじて)、呂不韋もまた志のある人士を招致して厚遇し、食客は三千人にも至った。

またこの時、諸侯の国には弁舌の士が多く、荀卿(じゅんけい)などは書を著して天下に広めていた。呂不韋は食客に各人が聞いたことを書かせ、それらを編集して八覧(はちらん)・六論・十二紀(『呂氏春秋』の篇名である)など二十余万字からなる書物を作り、天地・万物・古今のことをすべて網羅していると称していた。この書物のことを『呂氏春秋』と呼んだ。それを咸陽(かんよう,秦の国都)の市場の門に並べ、千金を懸賞金として諸侯の国の遊士・賓客を招いて、『この書物に一字でも増減できる者がいれば、千金を与えよう』と述べたのである。

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始皇帝が壮年になっても、太后の淫乱は止むことがなかった。呂不韋は太后との関係が発覚して禍が己の身に及ぶことを恐れて、密かに男根の大きなロウアイという人物を見つけてきて舎人(家来)にし、時々、淫らな音楽を演奏してロウアイの男根に桐の輪をつけて歩かせ、その噂を太后に聞かせて誘おうとした。太后は噂を聞いて、果たしてロウアイを密かに手に入れたいと思った。呂不韋はロウアイを太后に差し出すことにして、嘘をついてロウアイが腐刑(ふけい,去勢させる刑罰の宮刑)に当たる罪を犯したと、ある人に告訴させた。そうして呂不韋は太后にまた密かに言った。

「罪によって腐刑に処せられたと偽れば、ロウアイを宮中で仕えさせることがおできになるでしょう。」

太后は腐刑を担当する役人に密かに手厚い贈り物をして、偽って腐刑の判決をさせ、ロウアイの鬚(あごひげ)や眉を抜いて宦者(かんじゃ)にした。ロウアイは遂に太后に侍することができるようになった。太后は彼と密通して非常に寵愛したが、やがて妊娠した。太后は人に知られることを恐れて、偽って卜い(うらない)をし、時の祟りを避けるべきだとして、宮殿を出て雍(よう,陝西省)に住んだ。ロウアイは常に太后に付きしたがい、賞賜(しょうし)されること非常に厚く、事はみんなロウアイの元で決断された。ロウアイの家の召使は数千人にのぼり、仕官を求めてロウアイの舎人(けらい)になった者が千余人もいた。

始皇の七年(前240年)、荘襄王の母の夏太后が薨じた。孝文王の后は華陽太后(かようたいごう)といい、孝文王と共に寿陵(じゅりょう,長安の東北)に合葬されていた。夏太后の子の荘襄王は止陽(しよう,長安の東)に葬られていた。それ故に、夏太后は別に単独で杜(と,長安の東南)に葬られた。夏太后が「東に吾が子を望み、西に吾が夫を望みたい。百年後には、近傍に一万戸の邑(まち)ができるだろう。」と言っていたからである。

始皇の九年(前238年)、「ロウアイは実は宦官ではありません。常に太后と私通乱交して子二人を生んでおり、みんなこれを匿して(かくして)います。太后と相談して、『王がもし薨じたら、自分たちの子を後嗣(あとつぎ)にしよう』と申しております。」と密告する者がいた。そこで秦王は役人に命じて調べさせ、詳しく実情を知った。事態は、相国の呂不韋にも連なっていた。九月に、ロウアイの三族を皆殺しにし、太后が生んだ二人の子も殺し、遂に太后を雍に遷して、諸々のロウアイの舎人はみなその家産を没収して蜀(四川省)へ遷した。

王は相国をも誅殺したいと思ったが、その先王に尽くした功績が大きく、また賓客・弁士のうちに相国を弁護する者が多かったので、法を適用することが忍びなかった。秦王は十年の十月に、相国・呂不韋を罷免した。そして、斉人の茅焦(ぼうしょう)が秦王を説得したので、秦王は太后を雍から迎えて咸陽に復帰させた。そして文信侯を都から出して、河南へと赴かせた。

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その後一年余り、諸侯の賓客や使者が、道路に引き続いて、文信侯に謁見を請うていた。秦王は謀反を起こされることを恐れて、文信王に次のような親書を賜われた。「あなたは秦に対するどのような功労によって、秦があなたを河南に封じ、十万戸の食邑(しょくゆう)を与えているのだろうか。またあなたは秦といかなる血縁があって、仲父と呼ばれているのだろうか。その家属と共に移って蜀に移住するようにせよ。」

呂不韋は次第に権勢を剥がされて最後は誅殺されるだろうと考えて、酖毒(ちんどく)を飲んで死んだ。秦王が怒りの対象にしていた呂不韋とロウアイがみな死んだので、ロウアイの舎人で蜀に遷していた者すべてを都に復帰させた。始皇の十九年(前228年)、太后が薨じた。帝太后と諡(おくりな)して、荘襄王と共にシ陽(しよう)に合葬した。

太史公曰く――ロウアイは呂不韋のお陰で尊貴になり、封ぜられて馬信侯(ばしんこう)と呼ばれた。ある人がロウアイを密告した時、ロウアイもそれを仄聞した。秦王は左右の者に問うて証拠を得ようとしたが、まだ公表はしていなかった。そして、雍に赴いて郊祀(こうし,郊外で天を祀る)した。ロウアイは禍が起こるのを恐れて一党と謀り、偽って太后の印璽(いんじ)を使って、兵を発してキ年宮(きねんきゅう)で反乱を起こした。秦王は役人を送り込んでロウアイを攻めた。ロウアイは敗走した。役人は追跡してこれを好畤(こうじ,陝西省)で斬り殺し、その一族を滅ぼした。呂不韋もこの事件によって衰退した。孔子のいわゆる『聞(ぶん)』――表面は仁者だが内面には仁を持たない人――というのは呂不韋のような人物のことであろうか。

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