『史記 魯仲連・鄒陽列伝 第二十三』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 魯仲連・鄒陽列伝 第二十三』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 魯仲連・鄒陽列伝 第二十三』のエピソードの現代語訳:2]

そこで新垣衍(しんえんえん)が起き上がり、再拝して謝って言った。「はじめ先生を凡庸な人だと思いましたが、今日、私は先生が天下の士であることを知りました。私はここを立ち退き、敢えて再び秦を帝としようなどとは言いません。」 秦の将軍はこれを聞いて、軍を五十里退却させた。たまたま魏の公子・無忌(むき)が晋鄙(しんぴ)の軍を奪い、趙を救援して秦軍を攻撃することになり、秦軍は遂に立ち去った。

こうして、平原君は魯仲連を封じようとした。魯仲連は辞退して、使者が三度も往復したが遂にそれを受けなかった。平原君は酒宴を開いた。そして酒がたけなわになった所で、起ち上がって前に進み、千金を差し出して魯仲連の寿を祝った。魯仲連は笑って言った。「天下の士たる者が貴いのは、人のために憂患を除き、艱難を解いて、紛乱を解決して、しかも何も報酬を取らないからです。もし報酬を取れば、それは商人のすることになります。私はそれが忍べないのです。」 遂に平原君の元を辞して去り、死ぬまで二度と会うことはなかった。

それから二十余年が経って、燕の将軍が聊城(りょうじょう,山東省の斉の邑)を攻めて下した。聊城のある人が、その将軍を燕に讒言(ざんげん)した。燕の将軍は誅罰を受けるのではないかと恐れて、聊城に立て篭ったまま帰国しようとしなかった。斉の田単(でんたん)が聊城を攻めたが、一年余りして士卒の戦士が多く、それでも聊城は降伏しなかった。そこで魯仲連は書面を書いて、矢に結んで城中に射て、燕の将軍へと送った。その書面に曰く、

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「私は『智者は時流に背いて利を捨てない。勇士は死を恐れて名を滅ぼさない。忠臣は自分の一身のことを先にして主君を後回しにしない』と聞いています。今、公は讒言された一時の怒りに駆られて、燕王に良臣がいないことを顧みて帰国しないが、それは忠ではありません。己の身を殺して聊城を滅ぼすことになるでしょうが、そうして威が斉に延びないのは、それは勇ではないのです。このまま功が敗れて名は滅び、後世で称されることがないのは、それは智ではありません。これらの三点に当てはまる者は、世の君主は臣とせず、遊説の士も口にしようとしない。だから智者は即座に決断し、勇士は死を恐れないのです。今、死生栄辱(しせいえいじょく)、貴賤尊卑(きせんそんぴ)の分かれ目にあり、更にこのような時期は二度と来ないでしょう。どうか公はよく熟慮されて、俗人と同じようにはしないで頂きたい。

かつ、楚は斉の南陽(なんよう)を攻め、魏は平陸(へいりく)を攻めているが、斉は南に向かって楚・魏を攻めようという心はない。南陽・平陸を失う損害は小さく、聊城を含む済北(せいほく,済水の北)の地を手に入れる利益の大きさには及ばないと考えているからである。それ故、計略を定めて慎重に対処しているのである。今、秦が兵を下せば、魏は敢えて東に向かわないだろうし、斉と秦の連衡(れんこう)が成れば、楚の形勢は危うくなるだろう。斉は南陽を捨て平陸を諦めても、済北の平定は熟慮して断行してくるだろう。すなわち斉の聊城奪回は既定路線であるから、公は即座に決断すべきである。今、楚と魏の兵はそれぞれ斉から退いて、燕の救援軍は到着しない。このように天下の規範が乱れた状況で、全斉の兵が、一年間疲弊を重ねた聊城と対峙すれば、公の得るところが無くなってしまうのは明らかである。

かつまた、燕国は大いに乱れて、君臣共に計略を失い、上下共に迷い惑っている。栗腹(りつぷく)は十万の兵を率いて五回も国外で敗れ、そのために燕は万乗の国でありながら、国都を趙に包囲され領土を削られて君主は困り、天下の笑いものになっている。国は疲弊して禍(わざわい)は多く、民は心を寄せる所もない。今、公は疲弊した聊城の民を率いて全斉の兵を防いでいるが、これはあの墨テキ(ぼくてき,宋のため楚の猛攻を防いだ墨子)の守備にも匹敵する。(追い詰められて)人骨を食い、人骨を薪にして炊事をしているが、公の士卒には背反の心はない。これは孫ピンの用兵にも匹敵する。

今、公の能力は天下に明らかである。しかし、公のために考えてみると、兵車・武装兵を少しも損なわずに燕に帰るに越したことはない。兵車・武装兵が全きままで燕に帰れば、燕王は必ず喜ぶだろう。公の身が全きまま帰国すれば、士民は父母に会ったように喜び、公の友人は腕まくりして公の功績を世で議論し、公の功業は世に明らかになるだろう。上は孤立した燕王を補佐して群臣を制御し、下は庶民を養って遊説の士に話題を提供し、国事を矯正し堕落した風俗を改めれば、功名は立つだろう。燕に帰る意志がないならば、燕を捨て世を棄てて、東の魯に遊歴するのも良い。

斉は地を割いて公の封領を定め、公の富は陶朱公(とうしゅこう,范蠡=はんれい)や衛の公子・荊(けい)に比肩し、公の子孫は代々「孤(一国一城の主)」を自称して、斉と共に久しく存立するだろう。これもまた一計である。この二つの計略は、共に名を顕して実利を厚くする方法である。どうか公は熟慮されて、どれか一つを選ばれてください。

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私はまた『小さな節義にとらわれる者は、栄名を成し遂げることはできず、小さな恥辱を憎む者は、大功を立てることはできない』と聞いております。昔、管夷吾(かんいご,管仲・管子)は桓公を射てその帯の留め金に命中させたが、これは簒奪行為である。公子糾(きゅう)を見捨てて、糾と共に死ななかったが、これは卑怯な行為である。縄目をかけられ手枷足枷を加えられたが、これは恥辱の行為である。これら三つの行為があるような者は、世の君主は臣下として用いず、郷里の人々も交際しないだろう。

もし管子(管仲)が幽囚されたまま世に出ず、獄死して斉に帰れなかったならば、恥辱に満ちた人の賤しい行為という汚名を免れなかったはずである。奴婢でさえこれと同様の汚名を蒙ることを恥じるであろうし、まして俗世を生きる普通の人であればなおさら恥じるであろう。管子は牢獄につながれることを恥じずに、天下が治まらないことを恥じ、公子糾のために死なないことを恥じずに、斉の威力が諸侯の上に伸びないことを恥じたのである。それ故、三つの行為の過ちを兼ねて犯しながら、桓公を五覇の最初の君主とし、その名は天下に高く轟き、その光は隣国まで照らしたのである。

曹子(曹沫,そうまつ)は魯の将軍となり、斉と三戦して三回敗北し、魯の領土を失うこと五百里であった。もし曹子が後事を考えず、魯に帰らぬ決意をして、自分の首を刎ねて死んだのであれば、敗軍の打ち取られた将軍という汚名を免れなかったであろう。しかし曹子は三回敗走した恥を捨てて、退いて魯君と図った。斉の桓公が天下の諸侯を召集して会盟した時、曹子は一剣のみを頼りにして、壇上で桓公の胸にその剣を突きつけ、顔色も変えず、言葉も呼吸も乱れることなく、三戦して失った領土を一朝にして取り戻したのである。天下は震動して、諸侯は驚愕し、その威光は遠く呉・越にまで及んだのである。

この二人は小さな恥辱を恥じ、小さな節義を行うことができなかったわけではない。身を殺し、家系・子孫を断絶して、功名が立たないのは、智者ではないと思ったのである。それ故、忿怨を捨てて、終身の名を立て、忿恨にこだわる小さな節義を捨てて、累世の功を定めたのである。それによって功業は夏・殷・周の三王と共に伝わり、名声は天地と共に悠久である。どうか公よ、一つを選ばれますように。」

燕の将軍は魯仲連からの書面を見て、泣くこと三日、なおぐずぐずして決断ができなかった。燕に帰ろうと思えば、既に燕王との間に不和があって誅殺される恐れがあり、斉に降服しようと思えば、斉人を殺したり捕虜にしたりした数が非常に多いので、降服した後で辱められる恐れがあった。そこで嘆いて、「人から刃を加えられるよりは、自刃したほうがましである。」と言って自殺してしまった。聊城は混乱した。田単は遂に聊城を屠った。そして帰還して、斉王に魯仲連について言上し、これに爵位を与えようとした。魯仲連は逃げて、海浜に隠れて言った。「私は富貴の身になって人(君主・関係者)に気兼ねするよりも、むしろ貧賎のままで世を軽んじ自由気ままに暮らしたいのです。」

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