『史記 田単列伝 第二十二』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 田単列伝 第二十二』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 田単列伝 第二十二』のエピソードの現代語訳:1]

田単(でんたん)は斉の田一族の遠縁である。ビン王の時代に、単は臨シ(斉の国都)の市場の属官になったが、その名を知られることもなかった。

燕が楽毅(がっき)に命じて斉を伐ち破らせると、斉のビン王は臨シから出奔して、呂城(きょじょう,山東省)に立て篭った。燕軍は長駆して斉を平らげた。田単は安北(あんぺい,山東省)に逃げ込み、その一族の人々に指令して、車軸の末をことごとく断ち切って鉄で包み、堅牢で進みやすくさせた。やがて燕軍は安北を攻め、城壁は破壊された。

斉人は走って逃げたが、車軸の頭が折れて車が壊れたため、燕に捕虜にされた。田単の一族だけは車軸を鉄で包んでいたので抜け出すことができ、東の即墨(そくぼく,山東省)に立て篭った。燕は斉の城邑をことごとく降してしまったが、ただ呂と即墨だけが降らなかった。燕軍は斉王が呂にいると聞いて、軍を併せてこれを攻めた。すると斉を救援するため派遣された楚の貞歯(とうし)が、呂でビン王を殺してしまい、呂を堅守して燕軍を防ぎ、数年の間、降服しなかった。

燕は兵を率いて東の即墨を包囲した。即墨の大夫は出て戦い、敗死した。城中の人々は共に田単を推して、「安北の戦いの時に、田単の一族は車軸を鉄で包んだため無事だった。兵法に習熟している。」と言い、将軍に立てた。田単は即墨を率いて燕軍を防いだ。

しばらくすると、燕の昭王が死んで恵王が立った。恵王は楽毅と仲が良くなくて隙があった。田単はこれを聞くと、間者(かんじゃ,スパイ)を燕に放って宣伝させた。「斉王は既に死に、斉の城邑で抜けないのは二つだけである。楽毅は誅罰を畏れて帰国しようとしない。そして斉の討伐を名目としているが、実は戦争を長引かせて、自分が南面して斉王になろうと望んでいる。だが斉人がまだ従わないので、暫く緩やかに即墨を攻めて、時機を待っているのだ。斉人はただ他の将軍がやって来て、即墨がめちゃくちゃに破壊されることだけを恐れている。」

燕王はその通りだと思って、騎劫(ききょう)を将軍にして樂毅と代えた。

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楽毅は逃げて趙に帰属し、燕の士卒は(楽毅が更迭されたことに)みんな憤慨した。そして田単は城中の人々に、食事の度に必ずその先祖を庭に祭って供え物を備えよと指令した。飛んでいる鳥はことごとく城中に舞い下りて、その供え物を食べた。燕人が鳥が城中に舞い下りるのを怪しむと、田単は「神が天から下ってきて、私を教えて下さるのだ。」と宣伝して言い、城中の人々に向かって「今に神人が現れて、私の師となるだろう。」と布れた。一兵卒が「私でもその師となることができますか。」と言うやいなや身を翻して逃げ出した。

田単は起き上がって連れ戻し、東に向かって座らせ、これに師事しようとした。兵卒は「私はあなたを欺いたのです。本当は無能なのです。」と言った。田単は「お前は何も言うな。」と言って、これを師とした。そして号令を出す度に、必ず師である神の教えだと称した。このようにしてから田単は宣言した。「私はただ燕軍が捕虜にした斉の兵卒を鼻斬りの刑に処し、これを前列に据えて私と戦い、それで即墨が敗れることだけを恐れている。」 燕人はこれを聞くと、その言葉通りのことを実行した。

城中の人々は降参した斉人がことごとく鼻斬りの刑にされたのを見て、みんな怒って堅守し、ただ捕虜になることを恐れた。田単はまた間者を放って言わせた。「私は燕人がわが城外の墓を掘り返して、先祖を辱めないかと恐れている。それを思っただけでも心が寒く冷える。」 燕軍は土盛りした墓をことごとく掘り返して、屍(かばね)を焼き捨てた。即墨の人々は城壁の上から望見してみんな涙を流し、互いに戦いたいと望んで、怒りは自ずから十倍にもなった。

田単は士卒が戦いに使えるようになったことを知ると、自ら版挿(はんそう,城壁工事用の板と鍬)を手にして、士卒と仕事を分担し、自分の妻妾を軍の隊伍の中に編入し、すべての飲食物を散じて士卒に振る舞った。そうして、武装兵はみんな隠れさせ、老人・子供・女性を城壁の上に登らせ、使者を送って燕に降服を約束した。燕軍はみんな万歳と叫んだ。田単はまた民から金を徴収して、千溢(せんいつ,金貨の目方)を集め、即墨の富豪を通じて、燕の将軍たちに送り、「即墨がもし降参したら、どうか私たちの一族・妻妾を捕虜にしたり掠奪したりなさらず、安心して居住させてください。」 燕の将軍たちは大いに喜んでこれを承諾した。燕軍はこれによってますます油断した。

田単は城中から徴収して千余頭の牛を集めた。赤絹の衣を作って、それに五色の龍の模様を画いて牛に着せて、刃を角に縛り、葦を尾に束ねて油をそそぎ、その端に火をつけた。そして城壁に数十の穴をうがって、夜に乗じて牛を放ち、壮士五千人がその後に従った。牛は尾が熱いので、怒って燕軍に突入した。燕軍は夜に大いに驚いた。牛の尾の炬火(たいまつ)は眩しいほどに光り輝いた。燕軍がこれを見ると一面に龍の模様があり、それに触れた者はことごとく死傷した。

五千人の壮士は枚(ばい)を口に含んで、無言で撃ってかかり、城中では太鼓を打ち喊声(かんせい)をあげ、老人・子供もみんな銅器を打ち鳴らして声援したが、その音声は天地に響き渡った。燕は大いに驚いて敗走した。斉人は燕の将軍・騎劫(ききょう)を誅殺した。燕軍は大いに乱れて、ただ走って逃げた。斉人は逃亡や敗走する者を追跡したが、通り過ぎた城邑はみんな燕に背いて田単に帰属したので、田単の兵は日ごとに増加して、勝ちに乗じて進んだ。燕軍は日ごとに敗れて逃走し、やっと河上(かじょう,斉の北の境)に到着した。

こうして斉の七十余の城邑はみんなまた斉のものとなったので、斉は襄王を呂から迎えて臨シに入れ、政治に当たらせた。襄王は田単を封じて、安平君(あんぺいくん)と呼んだ。

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太史公曰く――兵(いくさ)は、正兵で敵と相対して戦い、奇兵をもって勝つのである。兵の上手い者は奇兵を繰り出すこと窮まりがない。奇兵と正兵が循環して繰り出されるのは、環(たまき)に端がないのと同じなのである。そもそも初めは処女のごとく弱々しく見えて、敵が油断して守りもせず、後は脱兎のごとく逃げて、敵が守ろうとしても及ばないというのは、田単のような者(策士)のことを言ったものなのだろうか。

初め、卓歯(とうし)がビン王を殺した時、呂(きょ)の人々はビン王の子の法章(ほうしょう)を探し求めて、太史キョウの家で見つけ出した。時に、法章は雇われて庭園の草木に水を注いだりしていたが、キョウの娘が憐れんでこれを厚遇していた。後に法章は実情をその娘に打ち明け、女は法章と通じた。呂の人々が共に法章を立てて斉王とし、法章が呂を率いて燕を防ぐと、太史氏の女は遂に皇后となった。この皇后がいわゆる君王后(くんおうこう)である。

燕が初め斉に侵入した時、画邑(かくゆう,臨シの西北・山東省)の王燭(おうしょく)が賢明な人物だと聞いて、軍中に「画邑を巡る三十里以内には立ち入ってはいけない。」と布れ(ふれ)を出した。これは王燭のためである。その後、燕の将軍は使者を送って燭に言った。「斉人の多くはあなたの義を高く評価している。私はあなたを武将に取り立て、一万戸の領地に封じましょう。」 燭は固く辞退した。燕の将軍は言った。「あなたが聴き入れないのであれば、私は三軍を率いて画邑を屠るでしょう。」

王燭は言った。「『忠臣は二君に仕えず。貞女は二夫を替えず』です。斉王が私の諫言を聴き入れて下さらなかったので、退いて野を耕しているのです。国は破れ亡びてしまって、私はそれを保つことができませんでした。しかし今、兵力で脅されてあなたの武将になることは、桀王を助けて暴虐を行うのも同じです。生きて義を行えないよりは、烹殺された(にころされた)ほうがマシなのです。」

遂にその首を樹の枝にくくり、自ら発奮して頸を絞めて死んだ。斉の逃亡している大夫たちがこれを聞いて、「王燭は無位無官の民である。その人が義として北面して燕に仕えなかったのだ。まして官位を持ち禄を食んで(はんで)いる者なら、なおさら仕えるべきではない。」と言い、互いに集まって呂に赴き、斉王の諸子を探し求めて、法章を立てて襄王としたのである。

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