『史記 廉頗・藺相如列伝 第二十一』の現代語訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 廉頗・藺相如列伝 第二十一』の3について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 廉頗・藺相如列伝 第二十一』のエピソードの現代語訳:3]

四年後、趙の恵文王が死んで、子の孝成王が立った。孝成王の七年に、秦は趙軍と長平(ちょうへい,山西省)で対峙した。時に、趙奢(ちょうしゃ)は死んでおり、藺相如は重病であった。趙は廉頗に命じて、将軍として秦軍を攻めさせたが、秦軍はしばしば趙軍を破った。趙軍は塁壁を高くして戦わず、秦軍はしばしば挑戦したが、廉頗は応じなかった。趙王は秦の間者(スパイ)の言を信じた。その間者は言った。

「秦が恐れているのは、馬服君・趙奢の子の趙括(ちょうかつ)が将軍となることだけです。」 趙王は趙括を将軍に任じて、廉頗に代えようとした。すると、藺相如が言った。「王は名声があるということで趙括を用いようとしていますが、これは琴柱(ことじ)を膠(にかわ)づけにして瑟(しつ)を弾こうとするようなものです。括はただその父が残した兵法の書伝を読んでいるだけです。臨機応変の実戦を知らないのです。」 趙王はこれを聴き入れず、遂に括を将軍にした。

趙括は少年の頃から兵法を学び、軍事について意見をしていた。天下に自分に匹敵する兵法家などいないと思っていた。かつてその父の趙奢と軍事を論じた時、奢は括を議論で上回ることはできなかったが、それでも括に素晴らしい(良い)とは言わなかった。括の母が奢にその理由を尋ねると言った。「兵(いくさ)は命を賭ける死地である。しかし、括は安易に論じすぎるのである。趙が括を将軍にしなければ良いが、もし将軍にしたとしたら趙軍を破滅させてしまうのはきっと括であろう。」

括が出発しようとするに及んで、その母親が王に上書して言った。「括は将軍とすべきではありません。」 王が尋ねた。「なぜか?」 答えて言った。「はじめ私は括の父に仕えましたが、たまたま将軍でした。括の父には、自ら食物を手に給仕してあげた部下が数十人もいて、友人は数百人もいました。大王や王族から賞賜された品々は、みんな軍吏や士大夫に与えてしまいました。出陣の命令を受けた日からは、家事を顧みませんでした。しかし今、括が一朝で将軍となり、上位者として軍吏を公に集めましても、軍吏の中で尊敬して仰ぎ見るものがいません。王から賜わりました金帛(きんぱく)は、帰ってきては家に貯蔵し、買っておけば利益になりそうな田宅を毎日のように視察して買っているのです。王はあの子の父と比べてどのように思われますか。父と子では心持ちが違っているのです。どうか王はあの子を将軍としてお遣わしにならないでください。」

王は言った。「母よ、もう言うでない。私は決めたのである。」 括の母が言った。「王がどうしてもあの子を将軍として遣わすのであれば、もし任務に堪えないようなことがあっても、私が罪に連坐しないで済むようにしてくださいますか?」 王はこれを許した。

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趙括が廉頗に代わると、ことごとく軍令を改め、軍吏を更迭していった。秦の将軍・白起(はくき)はこれを聞くと、奇兵を放って敗走するように見せかけ、趙軍の糧道を断って、趙軍を二つに分断した。趙の士卒の心は括から離れた。四十余日が経つと、趙軍は飢えてきた。趙括は精鋭を繰り出して、自らも戦いに参加した。秦軍は趙括を射殺した。括の軍は敗れて、数十万の兵が遂に秦に降伏した。秦はこれをことごとく穴埋め(坑)にした。趙は前後を合わせて約45万の兵を失った。翌年、秦軍は遂に邯鄲(かんたん)を包囲した。一年余りして、邯鄲は殆ど陥落しそうになったが、楚・魏の諸侯の来援によって、何とか邯鄲の包囲を解くことができた。趙王は括の母の先の言葉に従って、その母親に誅罰を加えなかった。

邯鄲の包囲が解けた五年後、燕は栗腹(りつぷく)が「趙の壮者は長平で尽きて、その孤児たちはまだ壮年の大人になっていない。」と言った計略を用いて、兵を挙げて趙を撃った。趙は廉頗を将軍として迎え撃たせた。廉頗は燕軍を高(河北省)で大いに破り、栗腹を殺し、遂に燕を包囲した。燕が五城邑を割いて講和したいと請うてきたので、これを聴き入れた。趙は尉文(いぶん)の地に廉頗を封じて信平君(しんぺいくん)とし、仮の相国(しょうこく)に任じた。

廉頗が長平で罷免されて帰り、権勢を失っていた頃、昔馴染みの客はことごとく去ったが、再び用いられて将軍となると、去っていった客がまた戻ってきた。廉頗は言った。「立ち去れ。」 客は言った。「あぁ、あなたはいったい何を御覧になっているのですか?そもそも、天下の人々は利益のある所に就くものです。あなたに権勢があれば我々はあなたに従い、あなたに権勢が無ければただ立ち去るのみです。これは元より理の当然なのですから、どうして(自分に権勢が無くなり客が立ち去ったからといって)怨む必要があるでしょうか?」

それから六年が経ち、趙は廉頗に命じて、魏の繁陽(はんよう,河南省)を伐たせた。廉頗はこれを抜いた。

趙の孝成王が死んで、その子の悼襄王(とうじょうおう)が立った。楽乗(がくじょう)を廉頗に代えて将軍とした。廉頗は怒って、楽乗を攻めた。楽乗は敗走した。廉頗は遂に魏の大梁(だいりょう,魏の国都・河南省)に出奔した。その翌年、趙は李牧(りぼく)を将軍に任じて、燕を攻めて武遂・方城(ぶすい・ほうじょう)を抜いた。

廉頗は久しく大梁に居住していたが、魏は彼を信用しなかった。趙はしばしば秦軍に苦しめられていたので、趙王は再び廉頗を手に入れたいと思った。廉頗も再び趙に用いられたいと思った。趙王は使者を送って、廉頗を将軍として任用した場合に、それに堪えられるかを見定めさせた。廉頗の仇敵の郭開(かくかい)が、使者に金を多く与えて廉頗を中傷させた。趙の使者が廉頗に会うと、廉頗は一食に一斗(約9合)の飯と十斤(約五百匁)の肉を食べてみせ、甲冑を付けて馬に乗り、なお将軍の任用に堪えられることを示した。趙の使者は帰還した王に伝えた。「廉頗将軍は老いたといえども、なおよく飯を食らって健啖です。しかし、臣と坐を共にして、しばらくの間に何度か失禁をしました。」 趙王は廉頗が老衰したと判断し、遂に召さなかった。

楚は廉頗が魏にいると聞いて、ひそかに人を遣わしてこれを迎えた。廉頗はいったん楚の将軍となったが、功績はなかった。廉頗は言った。「私は趙の兵を用いたい。」 廉頗は遂に寿春(安徽省・楚の邑)で死んだ。

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李牧(りぼく)は、趙の北辺の名将である。かつて代の雁門(がんもん,山西省)に居住して匈奴(きょうど)に対する守備をしていた。その時、李牧は時々の都合で官吏を置き、市(民間)の租税はみんな幕府に運び入れて、士卒のための費用にした。毎日、数頭の牛を撃ち殺して、士を饗応し、射騎(しゃき)を習わせ、敵の襲撃を伝える烽火(のろし)に留意し、多くの間諜(スパイ)を放ち、戦士を厚遇した。

そして言った。「匈奴が侵入してきて盗みを働く時には、急遽、家畜類を収めて城内にたてこもれ。敢えて匈奴を捕虜にする者は斬罪に処す。」 これによって匈奴の侵入ごとに烽火は慎重に扱われ、その合図で人々はすぐに家畜類を収めて城内にたてこもり、敢えて戦わなかった。こうして数年が経ったが、人々は何も失うものがなかった。しかし、匈奴は李牧を臆病だと思い、趙の辺境の守備兵たちさえも我が将軍は臆病だと思った。趙王は李牧を責めたが、李牧は今までのやり方を変えなかった。趙王は怒って李牧を召喚し、他の人を代わりの将軍に任じた。

それから一年余りの間、匈奴が来襲する度に趙軍は出て戦ったが、しばしば不利に陥り、失うところが多く、辺境の民は農耕牧畜に従事できなくなっていった。趙は再び李牧に要請しようとしたが、牧は門を閉ざして出仕せず、病気を理由に固く断った。趙王は強いて無理やりに李牧を将軍に任じた。李牧は言った。「王がどうしても臣(私)を用いるというのであれば、臣の以前のやり方のままでいいのなら、敢えてご命令をお受けしましょう。」 王はこれを許した。

李牧は辺境に到着すると、以前の通りに指令した。匈奴は数年間も得るところがなく、やはり李牧は臆病だと思った。趙の辺境の士卒も日々の賞賜は受けたが実戦には用いられず、みんな一戦を願っていた。そこで、堅固な兵車千三百乗、騎馬三千頭を選り抜き、戦功で百金を得た勇士五万人、弓の名手十万人を配置して大演習を行い、大いに家畜を放牧して、人民が野に満ちたのである。匈奴が少し侵入してくると、勝とうとせずに偽って敗走し、数千人を置き去りにした。単于(ぜんう,匈奴の王)はこれを聞いて、大軍を率いて侵入してきた。李牧は多くの奇陣を配置し、左右の翼を張り、攻撃して大いに破り、匈奴の十余万騎を殺し、タン襤(タンラン,匈奴の部族)を滅ぼし、東胡(とうこ)を破り、林胡を降した。単于は敗走した。その後、十余年間、匈奴は敢えて趙の辺城に近づかなかったのである。

趙の悼襄王の元年(紀元前244年)、廉頗は既に魏に亡命していた。趙は李牧に命じて燕を攻めさせた。李牧は武遂・方城を抜いた。二年後、龍煖(ほうけん,趙の将軍)が燕軍を破り、劇辛(げきしん,燕に仕えた元趙人)を殺した。その七年後、秦が趙の将軍・扈輒(こちょう)を武遂で破って殺し、趙兵の首を十万斬った。そこで趙は李牧を大将軍に任じた。李牧は秦軍を宜安(ぎあん,河北省)で撃って大いにこれを破り、秦の将軍・桓奇(かんき)を敗走させた。趙は李牧を封じて武安君(ぶあんくん)とした。それから三年後、秦が番吾(はご,河北省)を攻めた。李牧は秦軍を撃破し、南の韓・魏の兵も防いだ。

趙王・遷(せん)の七年(前229年)、秦は王翦(おうせん)に命じて趙を攻めさせた。趙は李牧と司馬尚(しばしょう)に命じてこれを防がせた。秦は、趙王の寵臣の郭開(かくかい)に金をたくさん与えて間諜にしてしまい、李牧と司馬尚が謀反を望んでいるようだと言わせた。そこで、趙王は趙ソウ(ちょうそう)と斉の将軍・顔聚(がんしゅ)を送って李牧に代わらせようとした。李牧がその命令に従わなかったので、趙は人を送ってひそかに李牧を捕えさせて斬り殺した。司馬尚も廃した。その三ヶ月後、王翦は急に趙を撃って大いに破り、趙ソウを殺し、趙王・遷とその将軍・顔聚を捕虜にして、遂に趙を滅ぼしてしまった。

太史公曰く――死を覚悟すれば必ず勇気が湧く。死そのものが難しいのではなく、死に処することが難しいのである。藺相如が璧を取り返して柱を睨んだ時、あるいは秦王の左右を叱りつけた時には、(最悪の場合でも)勢いが赴くところは自分が誅殺されるだけだと分かっていたのだ。しかし、士でも怯懦(きょうだ)な者はいて、敢えて勇気を出そうとはしない。藺相如は一度、その気を奮って、威は敵国にまで延び、退いては廉頗に譲り、その名声は太山(泰山)よりも重かったのである。藺相如は智・勇に処しており、この二つを兼ね備えた人物というべきだろう。

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