中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。
『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 楽毅列伝 第二十』の2について現代語訳を紹介する。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 楽毅列伝 第二十』のエピソードの現代語訳:2]
「先王は私に命じて言いました。『私は斉に積もる怨みと深い怒りを持っている。そのため、わが燕の国力が軽くて弱いということも考えずに、ただ斉を伐ちたいのだ。』 私は『そもそも、斉にはかつて桓公が覇を唱えた余光があり、何度も戦勝した実績があります。武具を鍛えてあり、戦闘にも習熟しています。王がもし斉を伐とうというのであれば、必ず天下の諸侯を味方につけて戦ってください。天下の諸侯を味方につけるには、まず趙と同盟を結ぶのに越したことはありません。かつまた淮水北方の元宋の地は、楚・魏が欲しがっている所です。趙がもし承諾して、四国(趙・楚・魏・韓)と盟約して攻撃すれば、斉を大いに破ることができるでしょう。』と言いました。
先王はその通りだとお思いになり、符節(割符)を用意されて私を使者として南の趙に遣わしました。私は帰国して報告してから、兵を起こして斉を伐ったのです。天道と先王のご威光で、黄河北方の地が先王に服従しましたので、その地にいる兵を済水のほとりに集結して燕軍に加えました。済水のほとりの軍は命を受けて斉を伐ち、大いに斉を破りました。軽装の精鋭軍が長駆して斉の国都に迫りました。斉王は呂(きょ)に逃走して、何とか一命だけは助かったのです。斉の珠玉・財宝・戦車・武器・珍器は、ことごとく燕が手に入れました。
斉からの戦利品は寧台(ねいだい,燕の王宮にあった台)に陳列され、大呂(たいりょ,斉の鐘の名)は元英(げんえい,燕の宮殿の名)に展示され、先に斉に持ち去られた燕の鼎(かなえ)は歴室(れきしつ,燕の宮殿の名)に返り、薊丘(けいきゅう,燕の国都・河北省)には斉の文水のほとりの竹林が移植されました。春秋の五覇の時代以来、功業において先王に及ぶものはいません。先王は満足されて、地を割いて私を封じ、小諸侯と並び立つような身分にして下さったのです。私は密かに自分が任に耐えられるかを危ぶみましたが、ご命令を奉じて、お教えを承っていけば、幸いにも大過なくお仕えできるだろうと思ったので、命をお受けして辞退しなかったのです。
私は『賢聖の君主は、功業を確立すれば廃れない。だからその名が春秋(歴史書)に著される。先見の明がある士は、名声が上がれば損なわれない。だから後世においても称賛される』と聞いております。先王の怨みに報いて恥を雪ぎ(すすぎ)、斉という万乗の国を平らげて、斉が八百年にわたって蓄積した財宝・珍品を奪い取り、崩御の日に至ってもそれまでの教命は衰えず、政治を預かる臣下は法令を修め、慎んで嫡・庶の分を乱すことなく、それを人民・奴婢にまで敷き及ぼしていることは、すべて後世の教訓とすることができるのです。
私は『よく事を起こす者は必ずしもよく事を成し遂げず、始めをよくする者は必ずしも終わりをよくしない』と聞いております。昔、伍子胥(ごししょ)はその説が呉王闔閭(こうりょ)に聞き入られ、呉王はその足跡を遠くに伸ばして、楚の国都の郢(えい)に攻め込みました。しかし、次の呉王・夫差(ふさ)は伍子胥の説を是とせずに、伍子胥に死を賜って、その屍を馬革の袋に入れて長江(揚子江)に浮かべました。呉王夫差は、先王の政策を踏襲すれば功を立てられることを悟らなかったので、伍子胥を長江に沈めても悔いなかったのです。また、伍子胥は二人の君主の器量が同じではないことを早く察知しなかったので、長江に投げ入れられることになっても自説を改めなかったのです。
そもそも私の場合は罪過から身を免れて功を立て、先王の事績を明らかにすることが上計であります。辱めを受けるような誹謗を蒙って、先王の名誉を貶めることは、私が大いに恐れるところです。燕を去って趙に走るという不測の罪を犯しながら、更に趙のために燕の疲弊に乗じて伐ちましたから、これらの罪を幸いにも免れようなどということは義としてできないことなのです。
私は『昔の君子は、人との交際が絶えてもその人の悪口を言わず、忠臣は国を去っても、自分の潔白を言い立てたりはしない』と聞いております。私は不才の者ですが、しばしば君子に教えを受けました。ただ、側近の方々が周囲の言説に親しまれて、疎遠な者の行いを察しては下さらないのではないかと恐れますので、敢えて書面を通じて申し上げているのでございます。どうか君主だけはそのお心にお留めください。」
こうして、燕王は楽毅の子の楽間(がくかん)また昌国君とした。楽毅は趙・燕の間を往来して、再び燕と好みを通じた。燕・趙は楽毅を客卿に任じた。楽毅は趙で死んだ。
楽間が燕に居住すること三十余年、燕王喜(えんおう・き)がその宰相栗腹(りっぷく)の計略を用いて趙を攻めようと望み、その可否を昌国君・楽間に問うた。楽間は言った。「趙は四方の国と戦ってきた国です。その民は軍事に習熟しております。これを伐つのはいけません。」 燕王は聴き入れずに、遂に趙を伐った。趙は将軍・廉頗(れんぱ)に命じてこれを伐たせた。廉頗は栗腹の軍を高(こう,河北省)で大いに破り、栗腹・楽乗(がくじょう)を捕虜にした。楽乗は楽間の宗族である。こうして、楽間は趙に出奔した。趙は遂に燕を包囲した。燕は重ねて地を割いて、趙と講和した。趙軍は包囲を解いて去った。
燕王は楽間の意見を用いなかったことを後悔したが、楽間は既に趙にいたので、書面を送って言った。「殷の紂王の時、箕子(きし)はその意見を用いられなかったが、なお強く諌めて怠らず、紂王が自分の意見を聴くことを冀った(こいねがった)。商容(しょうよう)もその意見を入れられず、その身を辱められたのだが、紂王が変わってくれることを冀った(こいねがった)。そして政情が乱れて民心が離反し、囚人が勝手に獄中より脱出するに及んで、初めて二人は退隠したのである。そのため、紂王は暴虐な夏の桀王の同類とされるのだが、箕子・商容の二人は忠聖の名声を失うことがない。その憂患の誠を尽くしたからである。今、寡人(私)は愚かではあるが、紂王ほどに暴虐ではない。燕の民は乱れてはいるが、殷の民ほどにひどくはない。一家に不和があるのに、仲直りするための手段を尽くさず、いきなり隣家に告げるのはどうなのだろうか。あなたが寡人を諫めないこと、隣国の趙にいきなり出奔したことの二事について、寡人はあなたのために非常に残念に思っている。」
しかし、楽間・楽乗は燕が自分たちの意見を聴き入れなかったことを怨んで、二人とも遂に趙に留まった。趙は楽乗を封じて武襄君(ぶじょうくん)とした。
その翌年、楽乗・廉頗が趙のために燕を包囲した。燕を礼を厚くして講和したので、包囲を解いた。その五年後、趙の孝成王が死んだ。貞襄王(とうじょうおう)は、楽乗を廉頗に代えて将軍にした。そのため、廉頗が楽乗を攻めた。楽乗は敗走した。廉頗も亡命して魏に入った。その十六年後、秦が趙を滅ぼした。
それから二十余年、高帝(こうてい,漢の高祖・劉邦)が趙の故地に立ち寄った時に、「楽毅には子孫があるのか。」と尋ねると、「楽叔(がくしゅく)という者がいます。」と答えがあった。そこで、高帝はこれを楽卿(がくけい,河北省)に封じて華成君(かせいくん)と呼んだ。華成君は楽毅の孫である。また、楽氏一族には楽瑕公(がくかこう)・楽臣公(がくきょこう)があり、趙が秦に滅ぼされようとしたところ、斉の高密(こうみつ,山東省)に亡命した。楽巨公はよく黄帝・老子の学問を修め、斉で有名になり、賢師と称された。
太史公曰く――かつて斉のカイ通(かいとう)と主父偃(しゅほえん)は、楽毅の燕王への返書を読む度に、書を閉じて泣かないことはなかったという。楽巨公は黄帝・老子の学を学んだ。その学の祖師は河上丈人(かじょうじょうにん)と号した人物だが、履歴は分からない。河上丈人は安期生(あんきせい)に教え、安期生は毛翕公(もうきゅうこう)に教え、毛翕公は楽瑕公(がくかこう)に教え、楽瑕公は楽臣公(がくきょこう)に教え、楽臣公は蓋公(こうこう)に教えた。蓋公は斉の高密・膠西(こうみつ・こうせい)の地で教え、曹相国(曹参)の師となった。
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