『史記 屈原・賈生列伝 第二十四』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 屈原・賈生列伝 第二十四』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 屈原・賈生列伝 第二十四』のエピソードの現代語訳:2]

令尹(れいいん)の子蘭(しらん)は、(屈原の自分への怨みを知って)大いに怒り、上官大夫に屈原について頃襄王(けいじょうおう)に誹謗させた。頃襄王は怒って、屈原を流罪にした。屈原は揚子江岸に着いて、ざんばら髪のままで、沢の畔(ほとり)を吟じながら歩いていた。顔色は憔悴して、身体は枯れ木のように痩せていた。漁夫が見かけて尋ねて言った。「あなたは三閭大夫(さんりょだいふ,楚の王族)ではありませんか?どうしてこんな所に来られたのですか?」

屈原は言った。「世の中全てが濁っていて、私だけが清らかである。衆人がみんな酔っていて、私だけが醒めている。だから放逐されたのだ。」 漁夫が言った。「そもそも聖人は物事にこだわらず、世の中と共に推移するのです。世の中すべてが濁っているのであれば、どうしてその濁流に身を任せて、濁った波を上げないのですか。衆人がみんな酔っているのであれば、どうしてその酒糟を食べ、その上澄みを啜って共に酔わないのですか。なぜ瑾瑜(たま・宝玉)とまごうような優れた才能を持ちながら、自ら放逐されるようなことをなされるのですか。」

屈原は言った。「私が聞くところでは、『新たに頭髪を洗う者は、必ず冠を弾いて塵を払ってから被り、新たに入浴する者は、必ず衣服を振って埃を払ってから着る』とされている。誰が清潔な身に汚れた垢を受けるだろうか。それなら揚子江の流れに身を投げて、魚の腹の中に葬られたほうがマシである。皓皓(こうこう)と潔白な身に、世俗の真っ黒な塵埃(じんあい)など蒙ることができるだろうか。」

そこで屈原は懐沙の賦(かいさのふ,沙石を抱いて投身する長歌)を作った。その言葉に曰く、

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陽気が盛んな初夏  草木は莽々(もうもう)と茂る  私の心は痛んで絶えず悲しむ  南の土地へ急ぐ  瞬いて良く見れど谷は冥く(くらく)  しんと静まっていて音もない  心がふさいでもだえており  禍が起こって長く窮している  情を慰めて志を定め  無理をして自ら抑えている。

角を削って円く(まるく)するも  定まった法度は捨てることもできない  初めの道を易える(かえる)のは  これ君子の卑しむことである  計画して墨を引くに  初めの道を改めず  心直くて性(さが)敦厚き(あつき)を  大人が讃えてやまず  腕利きの工匠(たくみ)とて細工をしなければ  誰が尺度の正しさを知っているだろうか  黒き模様の暗処(くらいところ)にあれば  盲人は言う模様なしと  かの離婁(りい)も眼を細めて流し目すれば  彼も盲者だと盲人は思うだろう  白を変じて黒となし 上を逆さにして下と為す。

鳳皇(おおとり)は籠中にあり  鶏・雉は空を翔けて(かけて)舞う  玉と石とをつきまぜて  一枡に共に量る  あの党人の卑しくも頑固にして  あぁ我が抱く宝を知らざる  荷は重く載せたるは多く  車落ちこみて動かず  瑾(きん)を抱き瑜(ゆ)を握れども  窮しては誰にか示さん  村犬が群れて吠えるのは  怪しむところを吠えるなり  俊れたる(すぐれたる)を誹り傑(たか)きを疑うのは  凡人の常態なり  外を飾らず質朴なれば  衆人はわが異彩を知らず  削らぬままに材木の多ければ  わが才能を知る人ぞなき  仁を重ね義を襲ね(かさね)  謹みて徳を豊かにすれど  かの重華(じゅうか,聖人の舜)に逢うことなくば  誰がわが本来を知らん  聖君と賢臣  古き世にも並ばぬあれど  そもそもなぜなのかを知らず

湯王・禹王は遥かな昔  貘(ばく)として慕うに理由はなし  恨みを留め怒りを改め  心抑えて自ら努め  憂患あれども心動かず  後世の範となれば  路を進みて北に宿れば  日は暗くして今暮れんとす  憂哀はあれど口には出さず  来るべき死を待とう

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乱(結びの歌)に曰く

広大な元・湘の水  分かれ流れて速やかなり  はるかな路は草に蔽われ  行く手は見えず  吟詠して常に悲しみ  嘆きてやまざること久しきも  世人既にわが心を知ることなく  それを説く術もなし  真心と質朴な性があれども  証を立てる術もない  伯楽(はくらく)の既に没しては  駿馬(しゅんめ)の力 誰か量らん  人の生まれるや天命を受け  各々の定めに安んじるあり  心根はしっかりと志を広め  我またどうして畏懼(おそ)れん  されど重ねて傷み悲しみありて  長歎息の絶えざるは  濁りたる世の我が心を知らず  説く術がなければなり  死は避けえないと知る  どうか生命を惜しむことなかれと  君子に明らかに告げん  私が今にもあなた方の範になることを。

こうして、石を懐に入れて、遂に汨羅(べきら,湖南省:汨水と羅水の合流地点)に投身して死んだ。屈原の死後、楚に宋玉(そうぎょく)・唐勒(とうろく)・景差(けいさ)などがあり、皆、文章を好み、賦に優れていて称揚された。しかし彼らは屈原本来の優れた人間性に基づく詠い方を祖型にしているが、敢えて直諌しようとするほどの人物ではなかった。その後、楚は日々領土を削減されること数十年、遂に秦に滅ぼされた。

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