中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。
『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 屈原・賈生列伝 第二十四』の3について現代語訳を紹介する。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 屈原・賈生列伝 第二十四』のエピソードの現代語訳:3]
屈原(くつげん)が汨羅(べきら)に身を沈めてから百余年の後に、漢に賈生(かせい)という者があり、長沙王(ちょうさおう)の太傅(たいふ,お守り役の長)となって、湘水(しょうすい)を渡った時、書物を水中に投じて屈原を弔った。
賈生(かせい)は名は誼(ぎ)、洛陽(河南省)の人である。十八歳の時には、よく詩を誦して(じゅして)文を綴ることで郡中で有名だった。呉廷尉(ごていい)が河南の太守であった時、賈生の秀才ぶりを聞いて、召して門下に置き、とても寵愛していた。孝文皇帝が即位した初め、河南の太守の呉公が治績で天下第一であり、李斯(りし)と同郷で、かつて李斯に付いて学んだことがあると聞いて、河南から召喚して廷尉に任じた。すると呉廷尉は、賈生が年少ではあるが諸子百家の書物によく精通していると言上した。孝文皇帝は賈生を召して博士(官名)とした。
この時、賈生は二十余歳で博士の中で最年少だった。詔令の草案について諮問される度に、諸々の老先生は発言できず、賈生がすべて対えた(こたえた)が、それは各人がそのように言いたいと思っていた意見でもあった。そのため、諸先生たちは才能において賈生に及ばないと思ったのである。孝文帝は喜んで賈生を一足飛びに昇進させ、賈生は一年で太中大夫(たいちゅうたいふ,宮中顧問官)となった。
賈生は漢が興ってから孝文帝に至るまで二十余年を経過し、天下はよく治まって和合しているので、当然、暦法を改め、官服の色を変え、法度を制定し、官名を定め、礼楽を興すべきだと考えた。それらの範となるべき草案は作り、色は黄色を尊び、数は五を基準にし、官名を作り、秦の法をことごとく改めた。孝文帝は即位したばかりであり、謙譲の心をもってまだそこまでは変えられないと思っていた。諸々の律令が改定されたり、列侯がすべてその封領に赴任するようになった変化は、すべて賈生の発案によるものなのである。
こうして天子(孝文帝)は群臣を召して、賈生を公卿の位につけたいと思うがどうかと議論した。しかし、絳侯(周勃)・灌嬰(かんえい)・東陽侯(張相如)・馮敬(ふうけい)はみんな賈生を嫌って、「あの洛陽の男は、年齢も若く、学問を始めたばかりであるのに、もっぱら権力を専横して諸事を紛糾させようとしています。」と誹謗したので、天子も後から賈生を疎んじ、その提案を取り上げないようになった。そして賈生を長沙王の太傅(たいふ)にしてしまった。
賈生が別れの挨拶をして赴任したが、行きながら長沙(湖南省)は低湿の土地だと聞いて、長寿を得ることはできないだろうと思った。また流されたのだと思って、自分の思うようにはならないものだと思った。湘水を渡る時、賦を作って屈原を弔った。その辞に曰く、
恭しく詔を承り 罪を長沙で俟つ身となった 側聞している屈原先生 自ら汨羅(べきら)に沈めりと 湘水に至り流れに託して つつしみて先生を弔う 先生は無道の世に遭い そのために生命を落とした あぁ哀しきことかな 良くない時に逢うこと めでたき鸞鳳(おおとり)は伏し隠れ 卑しき鴟梟(みみずく)が天を翔ける 不肖の徒は尊ばれて世にときめき 讒言して諂う輩は志を得て 賢聖はさかしまに引きずられ 方正の士は倒立して地位もなし 世人は言う 伯夷(はくい)は貪にして 盗跖(とうせき)は廉なりと かの名剣・莫邪(ばくや)を鈍いとし 鉛で作られた刀を利い(するどい)とす あぁ先生、志を得ず
故なくしてこの禍に遭う かの貴き周の鼎(かなえ)を捨て去り 虚しき大瓠(おおふくべ)を宝とす 疲れたる牛によき車を引かせ 足を引きずる驢(ろば)を副馬(そえうま)とす 哀れなり、俊馬は両耳を垂れ 塩つむ車を引かせられる 章甫(しょうほ,殷の宝冠)を靴と履くなれば 長く保てるわけもなし あぁ、痛ましい先生は 独りこの難事に遭われたり
訊(じん,乱と同じく結びの歌)に曰く、
已(や)んぬるかな、国に我を知ることなく 憤懣に満ちるわが心 誰にか語らん 鳳(おおとり)はかろやかに空高く 引退して遠く去り いと深き淵の底の底なる神竜は ひっそり潜みて身を労わる 明けた光遠ざかりて隠れ棲むを どうして蟻・蛭(ひる)・みみずと共に遊ばん 貴きは聖人の神徳ありて 濁世に遠ざかりて蔵るる(かくるる)にあり 俊馬たりとも羈絆(きずな)してつないだならば あの犬羊とどうして異なることがあるだろうか 紛糾した心が乱れて この禍に遭うは また先生の罪なり
九州(中国全土)を遊歴して賢君を相ければ(たすければ) 楚都のみに恋々とする必要があるか 鳳皇(おおとり)は空高く飛び翔けて 徳ある君を見つけては下り 小徳の危うきを見れば 羽ばたきて遠くに去りゆく 一尋(いちひろ)の池 二尋の渠(みぞ) 呑舟の大魚を容れるに余地なし 江湖をわがものとする大魚とて所を得ざれば 虫けらが制するところになり果てる
賈生が長沙王の太傅になって三年が経った頃、ふくろうが賈生の家に飛んできて、部屋の隅に止まった(ふくろうは当時遠くにまで飛ぶ力のない鳥とされていたから、賈生がこのまま長沙で没するとの暗示になっている)。楚人はふくろうをその形から服と言っていた。賈生は流されて長沙に居住したが、長沙は低湿の土地なので、長寿を保つことはできないと悼み悲しんで、賦を作って自らを慰めた。その辞に曰く、
卯(ぼう)の歳(孝文帝の6年) 初夏四月 庚子(こうし)の日 太陽が西に傾く頃 服(ふくろう)がわが家に飛来し 室の隅に止まった ゆったりと落ち着いていた 怪鳥の来たりしなれば ひそかにその理由を怪しむ 書を開いて占うと 策(めどき)に験(しるし)の言葉あり 「野鳥が入りて居る 主人まさに去らんとす」と されば服に問う 「予(われ)、立ち去りていずこに行かん 吉ならばわれに告げよ 凶ならば禍を言え 速やかなるかまたは遅きか われにその時期を告げよ」と 服は嘆息し首を上げて翼を振るう 口で物を言うことは不可能なれば 意を以て対えん(こたえん)。
万物は変化し わずかも休息することなし 流転して遷り あるいは推して還り 形は気に転じて 気は形に転じて 変化すること蝉の殻より脱けるが如し それは深く微けき(かそけき)こと窮まりなく どうして言葉で尽くし得るか 禍は福の倚る(よる)所 福は禍の伏する所 憂と喜は門を同じくして聚まり(あつまり) 吉凶は区域を同じくしてあり かの呉は強大なれども 夫差(ふさ)は敗れ 越は会稽(かいけい)に棲れ(こもれ)ども 勾践(こうせん)は世に霸たり 李斯は秦に遊説して功成るも 遂に五刑を蒙り 傅説(ふえつ)は刑徒にして のち武丁(ぶてい,殷の高宗)の宰相となる それ禍の福における何ぞあざなえる縄に異ならん
天命は説くべからず 誰かその窮極を知らんや 水激すれば疾く(はやく) 矢激すれば遠く飛びて常なし 万物は巡りてあいふれ 活動して変化す 雲はのぼり雨はくだり こもごも紛れて(みだれて)やまず 造化の物をつくる 広大にして際限なし 天はあらかじめ慮るべからず 道はあらかじめ謀るべからず 遅きも速きも天命による どうしてその時期を知らん 喩うれば天地は鑪(ろ) 造化は工人なり 陰陽は炭にして 万物は銅なり 合いては散り 減りては増すに いかで常則のあらん 千変万化して始めより極まりあるなし 忽然と生まれて人となるも 執着して愛惜む(おしむ)に足らず
化して異物となるも また患うるに足らず 小智の人は私心もて 万物を賤しみて わが人たるを貴ぶ 達人は大観し 物なべて可とせざるはなし 貪欲の人は財貨のために身を亡ぼし 義烈の士は名誉に殉ず 権勢を貪りて矜る(ほこる)者は権力のために死し 衆人はただ生を貪る 利に誘わるる者 貪に追わるる者は 東西に走りて利を求めんとす 徳すべてを包む大人は物に限らず 億万の変化に遭えども心変わらず 事物にこだわる人は世俗に縛られ 自由ならざること囚人の如し 至人は万物に超然として ただ道と共にあり 衆人は惑い惑うて 好悪のこと心中に堆し(うずたかし) 真人は淡々として静寂 ひとり道と遊ぶ それは人智を捨て人の形を忘れ 超然として自らを消し 天地の心もて道と共に天翔る(あまかける)
流れに乗れば行き 洲(す)にあえば止まる おおらかに我が身を天命に委ね 身を私することなし その生や水に浮かぶが如くで その死やひっそり休むが如し 淡々として静寂なること 深淵の静かな如く 天地の間に浮かぶこと自在にして 繋がざる舟の如し 生きるの故を以て自ら貴しとはせず
空虚に化して自適す あぁ上徳の人 心に累(わずらい)なく 天命を知りてなべて憂えず 小さな事故は草木の刺(とげ)か などて疑うに足らん
その後一年余りして、賈生は召喚されて孝文帝に謁見した。孝文帝は胙(ひもろぎ)を受けて、正殿に坐っていた。鬼神について感ずることあって、鬼神の本質を問うた。賈生は鬼神の鬼神たる所以を詳しく話して、夜半にまで及んだ。帝は興に駆られて身を乗り出して聞いていたが、言った。「私(朕)は久しく賈生と会わなかった。自分は賈生よりももう上だと思っていたが、今もまだ及ばないものだな。」 暫くして、賈生を梁の懐王の太傅(たいふ)に任じた。
梁の懐王は、孝文帝の末子で帝に寵愛されており、書物を好んだ。だから(読書家で博識な)賈生をその太傅にしたのである。また、孝文帝は淮南(わいなん)の厲王(れいおう)の子四人を封じて、みんなを列侯とした。賈生は諌めた。ここから憂患が起こると思ったからである。賈生はしばしば上訴して、「諸侯の中には数郡を併せて広大な土地を領有している者がいますが、これは古(いにしえ)の制度ではありません。少しずつ領土をお削りになられるべきです。」と言った。文帝は聴き入れなかった。
数年後、懐王は騎乗していて、落馬して死んでしまった。後嗣(こうし)がなかった。賈生は太傅でありながら不注意だったと悲しみ、一年余りも泣き続けたが、彼もまた死んだ。賈生が死んだ時は、三十三歳であった。孝文皇帝が崩じて孝武皇帝が即位するに及び、賈生の孫二人を挙げて郡守に取り立てた。二人のうちの賈嘉(かか)は学問を好んで家を継ぎ、私(司馬遷)と文通をしている。
太史公曰く――私は『楚辞』にある離騒(りそう)、天問(てんもん)、招魂(しょうこん)、哀郢(あいえい)を読んで、屈原の志を悲しむ。長沙に赴いて、屈原が自ら沈んだ淵を観たが、涙を流して屈原の人柄を思わざるを得なかった。賈生が屈原を弔った賦を見ると、賈生も屈原があれほどの才能を持っていて、諸侯の間を遊歴すれば受け入れない国もなかったであろうに、どうして自らあのような最期を遂げたのか怪しんでいる。しかし、服鳥(ふくろう)の賦を読むと、死と生を同じに見なして、去就を軽んじている。これだと茫然自失せざるを得ないということになる。
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