『史記 刺客列伝 第二十六』の現代語訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 刺客列伝 第二十六』の3について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 刺客列伝 第二十六』のエピソードの現代語訳:3]

聶政(じょうせい)は、只(し)の深井里(しんせいり)の人である。人を殺して仇を避け、母・姉と共に斉に赴き、屠殺業で生活していた。

しばらくして、濮陽(ぼくよう,河北省)の厳仲子(げんちゅうし)が韓の哀侯(あいこう)につかえたが、韓の宰相の侠累(きょうるい)と対立した。厳仲子は誅罰を受けることを恐れて、韓から逃げ去って諸国に遊び、侠累に報復できる人物を探して斉に至った。斉のある人が言った。「聶政は勇敢な人士で、仇をさけて屠殺者の間に身を隠している。

そこで、厳仲子は聶政の家を訪ねて交際を求め、しばしば往復した。そうした後に、ある日、酒宴の準備をして聶政の母にも杯をすすめた。酒が酣になった頃、厳仲子は黄金百溢(ひゃくいつ)を捧げ、進み出て聶政の母の長寿を祝った。聶政はその手厚さを驚き怪しんで、頑な(かたくな)に厳仲子の申し出を断った。厳仲子はそれでも勧めたが、聶政は断って言った。「臣(私)には幸いにも老母がいます。家は貧しく、他国に流浪して犬殺しなどもしておりましたが、朝夕、甘くて(うまくて)柔らかい食物を得て親を養うことができ、親への奉養に困ることはありません。あなたからの贈り物がなくても大丈夫ですから。」

厳仲子は人を退けて、聶政に言った。「臣(私)には仇があり、その仇に報復してくれる人物を求めて、多くの諸侯の国を遊説していました。しかし、斉に至って、密かにあなたの義心が非常に高いと承りました。百金をお贈りするのは、ご尊母のための粗末な食事の費用にでもして頂き、あなたとの交際を得たいと思ったからなのです。どうしてあなたに何かを望んだりなどするでしょうか。」 聶政は言った。「私が志を卑下し身を辱めて、市井の屠殺者の仲間になっているのは、ただ幸いに老母を養えるからです。老母が在世する限り、私の身は人に捧げることはできません。」 厳仲子がどんなに強いて勧めても、聶政は決して黄金を受け取らなかった。しかし、厳仲子も最後まで主客の礼を尽くしてから立ち去った。

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久しく時間が経ってから、聶政の母が死んだ。葬式も終わり、喪服を除いてから、聶政は言った。「あぁ、私は市井の俗人に過ぎず、包丁を鳴らして屠殺を業にしている。厳仲子は諸侯の卿相(けいしょう)である。その人が千里の道も遠しとしないで、わざわざ訪ねてきて私と交流してくれたのだ。それなのに、私の彼に対する待遇はとても冷淡であり、これだけはしてあげたと言えるようなこともない。厳仲子は百金を奉じて、私の親の長寿を祝ってくれようとした。私は受け取らなかったが、ここまでしてくれたのは、彼が私のことを深く知ってくれていたからである。彼ほどの賢者が怒って目を上げて仇を睨み、田舎者の私に親しんで信用してくれたのに、私だけ黙然として何もせずにいられようか。また更にある日、厳仲子は私の身を求めたが、私は老母が在世しているという理由で断った。今や、老母は天寿をまっとうして死んだ。私は自分を知ってくれる者のために仕事を為そう。」

そして遂に、西の濮陽に赴き、厳仲子に会って言った。「過日、あなたのお言葉に従わなかったのは、ただ親が在世しているからでした。今、母は天寿をまっとうして死にました。あなたが仇を報じたい者は誰ですか。仇討ちを引き受けましょう。」 厳仲子はつぶさに告げて言った。「私の仇は韓の宰相の侠累(きょうるい)です。侠累はまた韓の君主の季父(きふ,父の末弟)でもあり、一族は多くして勢力があり、その居所には盛んに衛兵を配置しています。私が人を送って侠累を刺殺させようとしても、どうしても成し遂げられる者がいません。今、あなたは幸いにも私を見捨てないでいて下さったのですから、車騎・壮士などあなたの手助けになる者を十分に用意しましょう。」

聶政は言った。「韓の国都の陽テキとここ衛の濮陽(ぼくよう)との距離は、それほど遠いものではありません。今、外国の宰相を殺そうとしていますが、その宰相はまた国の君主の親族でもあります。こういった状況では、勢いをもって多人数で当たることはできず、多人数で行えば仮に侠累を殺せても捕まる者が出て、そこからあなたのことが泄れる(漏れる)でしょう。事が泄れれば、韓は国を挙げてあなたを讎とするでしょう。それは何と危ういことでしょうか。」 そして遂に車騎・壮子を断り、聶政は別れを述べて独りで行くこととした。

剣を杖ついて韓に至った。韓の宰相の侠累はたまたま役所にいたが、武器を持っている護衛の兵が非常に多かった。聶政はそのまま役所に入って、階段を上り、侠累を刺殺した。左右の者は大いに乱れた。聶政は大声を上げながら、数十人を撃ち殺すと、自ら顔の皮を剥いで目を抉りだし、腹を切って腸を出し、遂に自死してしまった。

韓は聶政の屍(しかばね)を市にさらして、賞金をかけて身元を調べたが、それが誰かは分からなかった。そこで韓は賞金を増やして、「宰相の侠累を殺した者の身元を告げる者には千金を与える」としたが、それでも久しく誰か分からなかった。

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聶政(じょうせい)の姉の栄(えい)は、韓の宰相を刺殺した者がいて、その賊の身元が分からず、韓ではその姓名が分からないので、賊の屍をさらして千金の賞金を懸けているという話を聞くと、愁えながら言った。「それは私の弟ではないだろうか。あぁ、厳仲子は弟の本質を知っていたのだわ。」 そして姉は韓の市へと赴いた。その死者は果たして聶政であった。栄は屍の上に伏せて、極めて哀しげに哭いて言った。「これは、只(し)の深井里(しんせいり)の聶政という者です。」

市を通行する人々も、周囲にいた大勢の人もみんな言った。「この人は我が国の宰相に暴虐を働いた人で、国王が千金の賞金を懸けてその姓名を尋ねています。あなたはそれを聞いていなかったのですか。どうして敢えてやって来て、この人を知っているなどというのですか。」 栄は応えて言った。「そのことは聞いています。しかし、この聶政が汚辱を蒙りながら、市井の中に身を落としていたのは、老母が幸いにも恙無く(つつがなく)、私がまだ嫁に行っていなかったからです。その後に、親は天寿をまっとうしてこの世を去り、私も夫の嫁となりました。厳仲子は弟が志のある人物であることを察して、困窮・屈辱の境遇から引き立てて交際してくれました。恩沢は厚く、その恩沢にどうやって報いられるでしょうか。士は固より(もとより)己を知るものの為に死ぬものです。しかし、私がまだ生きていますから、(自分を傷つけ身元を隠して)私も一緒に連座することのないようにしてくれたのです。私が死刑になることを恐れて、どうして賢弟の名を滅ぼしてしまうことができましょうか。」

栄は韓の市の人々を大いに驚かせた。大声で天に向かって三度叫び、ついに悶え悲しんで弟の聶政の傍らで死んでしまった。晋・楚・斉・衛の人々はこのことを聞いて、みんな言った。「政がひとり賢能の士であっただけではない、その姉もまた立派な烈女であった。もし聶政が姉がただ泣き濡れて忍従するような性格ではなく、死骸をさらすことになっても恐れず、険しい千里の道をも踏み越えて、名前を連ねて姉・弟一緒に韓の市に刑死すると知っていたら、必ずしもその身を厳仲子に捧げなかったであろう。厳仲子もまたその人物をよく知って、士人をよく得たというべきである。」

その後、二百二十余年が経って、秦に荊軻(けいか)の事件があった。

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