『史記 刺客列伝 第二十六』の現代語訳:5

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 刺客列伝 第二十六』の5について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 刺客列伝 第二十六』のエピソードの現代語訳:5]

久しく時が経ったが、荊軻(けいか)はまだ行こうとする意思がなかった。秦の将軍・王翦(おうせん)は趙を破って、趙王を捕虜にして、ことごとくその地を没収した。軍を進めて北の地を侵略しつつ、燕の南の国境に迫った。太子丹は懼れて(おそれて)荊軻に問うて言った。「秦軍が今日にでも易水(えきすい)を渡れば、あなたと長く交際したいと思えども、どうしてそれを実現することができるでしょうか。」

荊軻は言った。「太子の言葉がなくても、臣(私)のほうから申し上げようと思っていたことです。今行っても、信用されるべき証がなければ、秦王には近づけません。あの樊将軍は、秦王が千斤の黄金と万戸の邑を懸賞にして求めている人物です。もし樊将軍の首と燕の肥沃の地である督コウ(河北省)の地図を持って行って秦王に献上すれば、秦王が悦んで必ず謁見するでしょう。そうすれば、私は太子の恩に報いることができます。」

太子は言った。「樊将軍は追い詰められた果てに、私を頼ってきたのです。私の事情によってあの有徳者の心を傷つけることは忍びないことです。どうかもっと違う方法を考慮して頂けませんか。」

荊軻は太子が忍びない気持ちであることを知ると、密かに樊於期に会ってから言った。「秦の将軍に対する処遇はまことに残酷と謂うべきものです。両親や一族はみんな誅殺され、今聞くところでは、将軍の首に千斤の黄金と万戸の邑を懸けているということです。将軍はどうなされるのですか?」 樊於期(はんおき)は天を仰いで嘆息し、涙を流して言った。「私はこのことを思う度に、いつも骨髄に達する痛みを感じていますが、ただどうすべきなのかが分からないのです。」 荊軻は言った。「今たった一言で、燕国の愁いを除き、将軍の仇に報いる策がありますが、どうでしょうか?」

樊於期は前に出て言った。「どうすれば良いのですか?」 荊軻は言った。「どうか将軍の首を頂戴して秦王に献上したいのです。秦王は必ず悦んで私を謁見するでしょう。そうした時に、私は左手で秦王の袖を押さえ、右手で秦王の胸を刺します。そうすれば将軍の仇は報いられ、燕が蒙った恥辱も除かれるでしょう。将軍はこの策にご同意頂けますか?」 樊於期は片肌を脱いで腕をさすり、進んで言った。「これこそ私が日夜切歯して心を砕いていたことです。ようやく今こそ、それを教えて頂きました。」 遂に自ら首をはねてしまった。太子はこれを聞くと、駆けつけて屍に伏し、哀しみを尽くして泣いた。既にどうしようもできないので、遂に樊於期の首を函に入れて封じた。

太子は前もって天下でも鋭利な匕首(あいくち)をあちこちに求めて、趙人・徐夫人(じょふじん)の匕首を見つけて、百金で買い、工人に命じてその刃に毒薬を染みこませ、人に試してみると、わずか一筋の出血だけで、すぐに死なない者はなかった。そこで、荊軻の支度を整えて秦に行かせることにした。燕国に秦舞陽(しんぶよう)という勇士がいて、十三歳で人を殺したことがあり、人は彼を恐れて逆らう者がなかった。そこで太子は秦舞陽を荊軻の副官としてつけた。荊軻には一緒に秦に行きたい者もあったが、その人が遠方にいてまだ到着しないうちに、旅行の支度が整った。しばらく経っても、荊軻は出発しなかった。

太子は落ち着かず、荊軻が後悔して計画をやめたのではないかと疑い、再び荊軻に請うて言った。「日限はもう尽きてしまいました。荊軻には何か別の意図があるのでしょうか。それなら、私は先に秦舞陽を遣わそうと思います。」 荊軻は怒って、太子を叱って言った。「太子はどうして秦舞陽などの小僧をお遣わしになるのですか。あの小僧を秦に行かせても失敗して返ってこないだけです。また一本の匕首だけをひっさげて、何が起こるか分からない不測の強秦に潜入するのですから、十分に慎重にしなければなりません。私が留まっていたのは、私の客人を待って一緒に行きたいと思っていたからです。今太子は待ちかねているようですから、これで出発致しましょう。」 遂に荊軻は出発した。

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太子と賓客のうちで事情を知る者は、みんな白衣の喪服を着て荊軻を送った。易水のほとりに至り、道祖神(どうそじん)を祀ってから、道程をたどった。高漸離が筑を打ち、荊軻が和して歌ったが、その音声は悲哀に満ちていた。士はみんな涙を流して泣いた。荊軻は歩きながら歌って言った。「風、蕭蕭(しょうしょう)として易水寒し、壮士一たび去ってまた還らず!」 また慷慨(こうがい)して繰り返すと、士の人々はみんな目を瞋らし(いからし)、頭髪はことごとく逆だって冠を突き上げんばかりだった。こうして荊軻は車に乗って去り、ついに振り返らなかった。

荊軻は遂に秦に至ると、千金の値のする幣物(へいもつ)を持参し、手厚く秦王の寵臣の中庶子(ちゅうしょし:官名)の蒙嘉(もうか)に贈った。蒙嘉は荊軻のためにまず秦王に言った。「燕王はまことに大王のご威光に振るえて恐れ、兵を挙げて我が軍吏に逆らおうとはせず、国を挙げて大王の内臣となり、他の諸侯にならって我が郡県のように貢物をさしだし、燕の先王の宗廟を守って祭祀を続けたいと願っております。しかし恐懼のために敢えて自らは大王に陳情できず、謹んで樊於期の首を斬り、その首を燕の督コウの地図と共に大王に献上しようとして、函に入れて封じ、燕の王宮の庭で拝んで送り、それを使者にもたせて大王に差し出しに参りました。大王はどうか謁見くださいますように。」

秦王はこれを聞いて、大いに喜び、礼装して九賓の礼(賓客を待遇する最高の儀式)を整え、燕の使者を咸陽宮で謁見した。荊軻が樊於期の首を入れた函を捧げ、秦舞陽が地図を入れた函を捧げて、次々と進んできた。宮殿の階段に至ると、秦舞陽の顔色が変わって恐れおののいた。群臣がこの様子を怪しむと、荊軻は振り返って秦舞陽を笑い、前に出て陳謝して言った。「北方の野蛮な地に住む田舎者で、まだ天子を拝見したことがございません。それ故、振るえおののいているのです。どうか大王にはこの者の無礼を許し、御前で使命を果たさせてください。」 秦王は荊軻に言った。「秦舞陽が持参した地図をここに持って来い。」 荊軻は地図を取って差し出した。

秦王が地図を開いた。地図がすべて開かれると、匕首が現れた。すると、荊軻はさっと左手で秦王の袖をつかみ、右手で匕首を握って秦王を刺したが、身体には届かなかった。秦王は驚いて、身を引いて起ち上がった。袖が絶ち切れた。剣を抜こうとしたが、剣が長すぎて抜けない。鞘をつかんだが、急場で慌てた。剣の鯉口(こいぐち)が固くて、すぐには剣が抜けない。荊軻は秦王を追いかけ、秦王は柱を回って逃げる。群臣はみんな驚き、不意のことなのでことごとく度を失っている。秦の法律では、宮殿上に侍る群臣は、ごく短い武器でも身に付けることができなかった。護衛の武官で武器を持っている者は、みんな宮殿の下に並んでおり、召しだしの詔(みことのり)がなければ宮殿に上がれなかった。

今は急場なので、下の兵を召し出すこともできない。それ故、荊軻が秦王を追い回したのである。事態は急なので、群臣は武器も無いまま、素手で荊軻に打ちかかった。この時、侍医(じい)の夏無且(かむしょ)は持っていた薬嚢(やくのう)を荊軻に投げつけた。秦王は柱を回って逃げたが、事態が急でどうすれば良いか分からなかった。左右の者たちが言った。「王よ、剣を背負いたまえ。剣を背負いたまえ。」 秦王は遂に剣を背負って抜き、荊軻を撃ってその左股を断ち斬った。荊軻は倒れた。そこで匕首を構えて秦王に投げつけたが、命中せずに桐柱に当たった。秦王はまた荊軻に撃ちかかり、荊軻は八箇所の傷を負った。荊軻は自ら事が成就しないことを知り、柱にもたれて笑い、足を投げ出して罵って言った。

「事が成就しなかった理由は、秦王を生かしたままで脅し、侵略した地を返すという約束をさせて、それを太子に報告したかったからだ。」 こうして左右の者が進み出て荊軻を殺したが、秦王はなおしばらく良い気分がしなかった。その後、論功を行って、群臣を賞して、罪に当たる者は罰したが、それ相応のものであった。夏無且には黄金二百溢を与えて言った。「無且は私を愛していて、薬嚢を荊軻に投げつけてくれたのだ。」

この事件で秦王は大いに怒り、兵を増発して趙に送り、王翦の軍に詔(みことのり)を出して燕を伐たせた。王翦は十ヶ月で薊(けい,燕の国都・河北省)を抜いた。燕王喜・太子丹らは、すべての精兵を率いて東の遼東にこもった。秦の将軍・李信が鋭く燕王を追撃した。代王嘉(だいおうか)が燕王喜に書を送って言った。「秦が燕を急追するのは、太子丹のためである。今、王が本当に丹を殺してこれを秦王に献上すれば、必ず秦王の怒りは解けて、燕の社稷(しゃしょく)は幸いにも継続できるだろう。」 その後、李信が丹を追った。丹は衍水(えんすい)の中洲に身を潜めた。燕王は使者を送って太子丹を斬らせ、これを秦に献上しようとした。しかし、秦はまた軍を進めて燕を攻めた。五年後(前222年)、秦は遂に燕を滅ぼし、燕王喜は捕虜となった。

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その翌年(前221年)、秦は天下を統一して、王に変わって皇帝と号すようになった。この時、秦は太子丹と荊軻が蓄えていた客を放逐し、客は逃げ去った。高漸離(こうぜんり)は姓名を変えて人の庸人(やといびと)になり、宋子(そうし,河北省)に身を潜めて労働した。しばらくして、労働が苦しくなった頃、主家の堂上の客が筑を打つのを聞くと、そのあたりをうろうろして去りがたかった。そこで言った。「あの人は上手い部分もあるが、下手な部分もあるな。」 従者が主人に言った。「あの庸人(やといびと)は音楽が分かるみたいで、音の良し悪しを言っています。」

主人は高漸離を召し出して筑を打たせた。一座の人々は上手いと褒めて、酒を賜った。高漸離は久しく隠れて貧窮な生活をしていても終わりがないと思ったので、そこを退出して、荷物箱の中から筑と晴れ着を取り出し、容貌を改めてから進み出た。一座の客はみんな驚き、席を下がって対等の礼を行い、高漸離を上客に据えた。筑を打って歌を歌わせると、涙を流して立ち去らない客はいなかった。宋子の人々は、高漸離を次々に迎えて客としたが、その噂が秦の始皇帝にも聞こえた。始皇帝は召して謁見した。ある人が彼を知っていて言った。「この者は高漸離です。」

始皇帝は彼が筑が上手いことを惜しんで、殺すことを憚り、その目を潰して筑を打たせることにした。彼が筑を打つたびに、上手いと褒めないことがなかった。こうして月日が流れると、始皇帝は次第に高漸離を近づけた。高漸離は鉛を筑の中に仕込んで、進み出て近づけた時に、筑を振りかざして始皇帝を撃ったが当たらなかった。これで始皇帝は遂に高漸離を誅殺し、終身にわたって諸侯の国から来た人々を近づけなかった。

魯句践(ろこうせん)は荊軻が秦王を刺殺しようとしたと聞くと、密かに言った。「あぁ、惜しかった、彼が刺殺の剣術を習わなかったことが。私の人を見る目の無さも酷いものだ。いつか私は彼を叱ったので、彼は私のことを人でなしと思ったことだろう。」

太史公曰く――荊軻について世に伝わる話で、太子丹が天命を受けたことを述べて、「天が穀物を降らせ、馬に角が生えた。」とあるが、これは大きな間違いである。また荊軻は秦王を刺して傷つけたというが、これも間違いである。かつて公孫季功(こうそんきこう)・董生(とうせい,董仲舒)は夏無且(かむしょ)と交遊して、詳しく事情を知り、私に話してくれたのである。曹沫(そうばつ)より荊軻に至るまでの五人は、その義をあるいは成就し、あるいは成就できなかった。しかしその意図は明らかで、その志を欺かなかった。その名が後世に伝わったのは、どうして妄言などであろうか。

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