『史記 李斯列伝 第二十七』の現代語訳:5

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 李斯列伝 第二十七』の5について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 李斯列伝 第二十七』のエピソードの現代語訳:5]

この時、二世皇帝は甘泉宮(かんせんきゅう)にあって相撲や芝居を観覧していたので拝謁できなかった。李斯はそこで上書して趙高の短所・欠点を述べた。「臣(私)は『臣下が君主に対して疑わしいほどの権力を持った時には国を危うくしないものはない、妻が夫に対して疑わしいほどの権力を持った時には家を危うくしないものはない』と聞いております。今、陛下の側に侍る大臣で、陛下の権限を専横して陛下同様に勝手に賞罰を与えている者がいます。これは不都合なことです。昔、司城(官名)の子罕(しかん)は宋の宰相でしたが、自ら刑罰を司り、威光をもってこれを行いました。そして満一年の後にその君主を劫かす(おびやかす)に至りました。

田常(でんじょう)は斉の簡公の臣となり、爵位は国中に匹敵する者はなく、その私家の富は斉の公室の富に等しく、恵みを布いて徳を施し、下は百姓(民)の心をつかみ、上は群臣の心をつかんで、ひそかに斉の国権を取り、宰予(さいよ)を庭で殺し、簡公を朝廷で弑殺(しいさつ)して、遂に斉国を保有しました。これは天下が明らかに知ることであります。今、趙高には邪悪で放逸な志があり、危険で反乱を起こしかねない行いがあり、子罕が宋の宰相であった時のようです。その私家の富は、田氏の斉国における富のようです。田常・子罕の逆道を兼ねて行って、陛下の威信を劫かそうとする志は、韓巳(かんい)が韓王安(かんおうあん)の宰相であった時のようです。陛下が対処しないと、臣(私)は趙高が変事を起こすのではないかと恐れます。」

二世皇帝は言った。「何を言うのか?そもそも趙高は、賤しい宦官であった。しかし、身が安全だから志をほしいままにはせず、危険だからと変心せず、行いを清潔にし、善を修め、自ら現在の地位に至ったのである。忠なるがために昇進し、信なるがためにその地位を守っている。朕は本当に趙高を賢人だと思っているが、あなたはどうして疑うのか?かつ朕は年少にして父親を失い、知識も乏しく、民を治めることに習熟しておらず、更にあなたは老いてしまったので、天下と縁が切れるのではないかと恐れている。朕はすべてを趙高に任せないとしたら、いったい誰に任せれば良いのか?かつ趙高の人柄は清廉で努力をする、下は人情を知り、上は朕の意思に適っている。あなたは趙高を疑ってはならない。」

李斯は言った。「そうではありません。趙高は元々卑賤の出身であり、理を識らず(しらず)、貪欲で厭く(あく)ことがなく、利を求めてやまず、主君に次いで権勢を張り、欲望を求めて窮まりがありません。だから臣(私)は、趙高が危険だと申し上げているのです。」 二世皇帝は以前から趙高を信じていたので、李斯が趙高を殺すのではないかと恐れて、ひそかに趙高に告げた。趙高は言った。「丞相が患えて警戒しているのは、私だけです。私が死んだら、丞相は田常のように振る舞おうとしているのです。」 そこで二世皇帝は言った。「李斯を郎中令(趙高)に引き渡せ。」

趙高は李斯を取り調べした。李斯は身柄を拘束され、縛られて牢獄の中におり、天を仰いで嘆いて言った。「あぁ、悲しいかな!無道の君主のために、どうして天下の計など立てられるだろうか。昔、夏の桀王は関龍逢(かんりゅうほう)を殺し、殷の紂王(ちゅうおう)は王子比干(ひかん)を殺し、呉王夫差(ふさ)は伍子胥(ごししょ)を殺した。これら三人の臣下は、どうして不忠だったといえるだろうか。それなのに、刑死を免れなかったのである。刑死したのは三人が忠義を尽くした君主が、忠を尽くされるに相応しい君主ではなかったからである。今、私の智はあの三人に及ばず、二世の無道は桀王・紂王・夫差よりも過ぎたひどいものである。私が忠であるために死ぬのも当然である。しかし、二世の治世は乱れずにいられようか。

先にその兄弟を滅ぼして自立し、忠臣を殺して賤人(趙高のこと)を貴位につけ、阿房宮(あぼうきゅう)を造営し、天下から重税を集めた。私は諫めなかったわけではなく、私の諫言が聴き入れられなかったのだ。およそ昔の聖王は、飲食に節度があり、車馬や器物には数の限りがあり、宮室には法度があった。命令を出して事業を行う時にも、費用ばかりかかって民の利益にならないものは禁止した。それ故に、長きにわたって治安を維持することができたのだ。しかし今、二世皇帝は暴虐を兄弟に加え、その咎(とが)を反省しようとしない。忠臣を殺して、その殃い(わざわい)に思いを及ぼさない。大いに宮室を造営し、重税を天下に課して濫費している。この三事が天下に行われたことで、天下は二世皇帝に聴従しなくなった。今、反逆の徒が天下の半ばを有するに至ったが、二世皇帝の心はいまだ事態を悟っておらず、趙高を補佐役にし続けている。このままでは必ず寇賊(こうぞく)が咸陽まで攻め込んできて、麋鹿(しか,大鹿)が朝廷で遊ぶことになるだろう(朝廷は逆賊に滅亡させられて鹿が跋扈する廃墟となるだろう)。」

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こうして二世皇帝は趙高に命じて丞相の罪状を取り調べさせ、李斯がその子の由と共に謀反を企んだことを責め、一族・賓客をすべて捕縛した。趙高は李斯の取り調べに当たって、千余回も鞭打って拷問した。李斯は痛みにたえられず、自ら誣告(ぶこく,誹謗中傷で作られた無実の罪)の罪に服した。李斯が自殺しなかったのは、自ら弁舌に優れていて功績があったからで、事実として謀反の心などないことを恃み(たのみ)、幸いを得て上書して意見を開陳できれば、二世皇帝が悟って赦してくれるのではないかと思っていたからである。李斯は獄中から以下のように上書した。

「私は丞相に任命されて民を治めること三十余年です、その時には秦の領土はまだ狭隘(きょうあい)なものでした。先王の時代には、秦の領土は千里四方に過ぎず、兵力は数十万に過ぎませんでした。私は乏しい才能をすべて尽くして、謹んで法令を奉じ、ひそかに謀臣を行かせて、金玉を所持して諸侯に遊説させ、また密かに武器を修め、政教を整えて闘士を官位につけ、功臣を尊んでその爵禄を高くしました。そうして韓を脅かし魏を弱め、燕・趙を破り、斉・楚を平らげ、遂に六国を兼併(けんぺい)して、その王を捕虜にし、秦王を立てて天子としました。これが第一の罪です。秦の領土が広大でなかったわけではありませんが、なお北の胡・貉(こ・はく,北方の遊牧民・蛮族)を放逐し、南の百越(ひゃくえつ,南方の蛮族)を平定して、秦の強盛を示しました。これが第二の罪であります。

大臣を尊んでその爵位を高くし、君臣の間を更に親密にしました。これが第三の罪です。社稷(しゃしょく)を立てて宗廟を修めることで、わが主君の賢徳を明らかにしました。これが第四の罪です。更に目盛をあらためて度量衡(どりょうこう)を均一にし、文物の制度を天下に広めて、秦の名誉を樹立しました。これが第五の罪です。行幸の道を整えて、遊山の場を設置することで、わが主君の得意さを示しました。これが第六の罪です。刑罰を緩やかにし、賦税を軽くし、わが主君が衆民の心を収攬して、天下万民が主君を上に戴き、死んでも(主君の恩徳を)忘れないようにしました。これが第七の罪です。臣下としての私は久しく前から、死罪に該当していたのでしょう。しかし陛下は幸いにも私の能力を尽くせるようにしてくださり、今に至ることができました。どうか陛下にはこれらの事柄をお察し下さいますように。」

この李斯の上書が送られてくると、趙高は役人に棄てさせて奏上せず、「どうして囚人が上書などできようか。」と言った。趙高はその食客十余人を、詐って(いつわって)御史(ぎょし,罪の糾弾を司る官)・謁者(えっしゃ,奏上する官)・侍中に仕立てて、交代で出向かせて李斯を訊問した。李斯がありのままの事実を答えると、その度に人に命令して笞打たせた。その後、二世皇帝が直接人を派遣して李斯を訊問させたが、李斯はそれまでの訊問と同じだと思い、終に意見を言わずに罪に服した。罪状が奏上されると、二世皇帝は喜んで言った。「趙高がいなかったら、危うく丞相に騙される所であった。」 また二世は三川郡の太守(李由)を取り調べる使者を送ったが、使者が三川郡に到着した時、項梁(こうりょう)が既に李由を撃ち殺していた。使者が帰ってくると、たまたま丞相は獄吏に引き渡されていた。趙高は李斯・李由の謀反の罪状をみな捏造して作り上げたのである。

二世皇帝の二年七月(前208年7月)、李斯に五刑を与えた後、咸陽の市で腰斬りの刑に処した。李斯は獄から出されて、連坐で捕らえられていた次男と共に刑場に行ったが、次男を振り返って言った。「私はまたお前と一緒に黄犬をつれて上蔡の東門を出て、素早い兎を追いかけたかったが、それはもうできそうにないな。」 遂に父子で声を出して泣き合い、李斯の一族は皆殺しにされた。

李斯の死後、二世皇帝は趙高を中丞相(ちゅうじょうしょう)に任じた。政事は大小を問わずすべて趙高の元で決済された。趙高は自らが得た権力が重いことを知って、鹿を二世に献上して馬だと言い張った。二世が左右の者に、「これは鹿だろう?」と問うと、左右の者はみな「馬です。」と答えたのである。二世は驚いて、自らの精神が錯乱したかと思い、太卜(たいぼく,卜筮を司る官)を召して占わせた。太卜は言った。「陛下は春秋の郊祀(こうし,天子が郊外で行う祭祀)に当たり、また宗廟の鬼神をお祭りになる時、斎戒が明らかではありませんでした。だからこのようなことになったのです。ご盛徳を修めて斎戒を十分に明らかになされるべきです。」 そこで二世皇帝は上林苑(じょうりんえん)で斎戒することにした。だが日毎に出遊して、狩猟に耽っていた。

通行人が上林苑に入ると、二世はこれを射殺してしまった。趙高はその女婿(じょせい)である咸陽の長官・閻楽(えんらく)に、「誰か分からないが、人を殺して上林苑に運んだ者がいる。」と告発させた。趙高は二世を諌めて言った。「天子が理由もなく無実の人を殺すのは、天帝が禁じていることです。鬼神も良しとせず、天はまさに殃(わざわい)を下すでしょう。遠く宮殿を避けて殃(わざわい)を払い除くべきです。」 二世はそこで都を出て、望夷宮(ぼういきゅう,陝西省にあった離宮)に居住した。

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三日留まり、趙高は衛士(えじ)に詔だと詐って、みな白の衣服を着用して、武器を手にして宮内に行かせ、自分は先回りして二世に言った。「山東の群盗が大勢で押し寄せてきました。」 二世は望楼(ぼうろう)にのぼってこれを見て、恐懼(きょうく)した。趙高はこれにつけ込んで、二世を自殺させてしまった。そして皇帝の玉璽(ぎょくじ,皇帝の証)を取り出し、自らが佩びた(おびた)。しかし左右の者や百官は従わなかった。宮殿にのぼると、宮殿は三回も壊れようとした。趙高は自分が天子になることは天も味方せず、群臣も許さないと知って、始皇の孫の子嬰(しえい)を召して玉璽を授けた。

子嬰は即位したが、趙高に反逆の心があることを憂え、病気と称して政事を聴かなかった。そして宦官の韓談(かんだん)およびその子と趙高の暗殺を謀議した。趙高が拝謁して病状を問うてきたので、召し入れて韓談に命じて刺殺させ、趙高の一族を皆殺しにした。

子嬰が即位して三ヶ月後、沛公(はいこう,劉邦=漢の高祖)の軍勢が武関(ぶかん,陝西省)から攻め込んできて咸陽に至った。秦の群臣・百官はみな子嬰に背いて守らなかった。子嬰は妻子と共に自ら頸(くび)に組み紐をかけて、只道(しどう)の付近で降伏した。沛公は子嬰らを役人の手に委ねたが、項王(項羽)が到着すると子嬰を斬った。遂に秦は天下を亡った(うしなった)のである。

太史公曰く――李斯は地方出身の微賤の身分で諸侯の国を歴訪し、秦に入って仕えた。諸国の隙につけ込んで、始皇を補佐し、帝業を成し遂げさせて、三公の地位へと昇った。尊ばれ重用されたというべきである。李斯は六芸(りくげい)の帰するところ、帝王の術を知っていながら、政を明らかにして主君の欠点を補うことに務めず、高い爵禄の身分でありながら、主君に阿って調子を合わせ、威を厳にして刑を過酷にし、趙高の邪説を聴きいれて、嫡子(扶蘇)を廃して庶子(胡亥)を即位させた。諸侯が秦に背いてから、初めて主君を諌めようとしたが、末節の行いではないか。世の中の人はみな李斯が忠を尽くしたのに五刑を被って殺されたと思っているが、私が李斯の本質を考察してみると、そういった世俗の論とは異なった面がある。こういった(阿諛・迎合・保身の)欠点がなければ、李斯の功績はまさに周公旦(しゅうこうたん)・召公セキ(しょうこうせき)と並ぶものであった。

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