『史記 蒙恬列伝 第二十八』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 蒙恬列伝 第二十八』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 蒙恬列伝 第二十八』のエピソードの現代語訳:1]

蒙恬(もうてん)は、その先祖は斉人(せいひと)である。蒙恬の祖父の蒙ゴウ(もうごう)は斉から来て秦の昭王に仕え、官は上卿(じょうけい)にまで上った。秦の荘襄王(そうじょうおう)の元年、蒙ゴウは秦の将軍として韓を伐ち、成皋・ケイ陽(河南省)を取り、三川郡(さんせんぐん)を設置した。二年、蒙ゴウは趙を攻めて、三十七城邑(じょうゆう)を取った。始皇三年、蒙ゴウは韓を攻めて十三城邑を取った。五年、蒙ゴウは魏を攻めて二十城邑を取り、東郡を設置した。始皇七年、蒙ゴウは死んだ。

蒙ゴウの子を武(蒙武)といい、武の子を恬(蒙恬)といった。蒙恬はかつて刑獄に関する法令書を作ったことがある。始皇二十三年(前224年)、蒙武は秦の副将軍として、王翦(おうせん)と共に楚を攻めて大いにこれを破り、項燕(こうえん,楚の将軍)を殺した。二十四年、蒙武は楚を攻めて楚王を捕虜にした。蒙恬の弟は蒙毅(もうき)である。

始皇二十六年、蒙恬は家柄によって秦の将軍となることができ、斉を攻めて大いにこれを破り、その功によって内史(だいし,京師という役職の長官)に任命された。秦は天下を統一すると、蒙恬に命じて三十万の兵を率いて北方の戎狄(じゅうてき,蛮族とされた遊牧民)を追い払わせた。黄河の南の地域(オルドス)を収めて、長城を築いたが、その長城は地勢に従っていて、嶮岨な地を利用して要塞にしたものだった。長城は臨トウ(甘粛省)から遼東に至るまで、延々と一万余里にもわたった。こうして蒙恬は黄河を北に渡って陽山(ようざん)に拠り、蛇行して北上した。軍を境外にさらすこと十余年、上郡に軍を置いていた。

当時、蒙恬の威力は匈奴(きょうど)を震え上がらせた。始皇帝ははなはだ蒙恬を尊寵し信任しており、彼らを賢明な将軍だと思っていた。そして始皇帝は蒙毅を側近にして、蒙毅は上卿の地位に上がり、外出に当たって同乗し、宮中では始皇帝に侍従した。蒙恬は外の軍事に当たり、蒙毅は常に宮中の政治に携わり、二人は忠信の臣との名声を得た。それ故、諸々の将軍・大臣も、敢えて二人と争う者はなかった。

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趙高(ちょうこう)は、趙の国王の遠い一族の者である。趙高の兄弟数人は、みな生まれるとすぐに宦官(かんがん,去勢された官僚)にされた。その母は刑罰を受けて殺されており、代々が卑賎な身分であった。秦王は趙高が勤勉で、刑法に通じていると聞いて、挙用して中車府令(ちゅうしゃふれい,御料車係の長官)にした。趙高はひそかに公子胡亥(こがい)に仕えて、これに判決の法を教えた。たまたま趙高が大罪を犯した時に、秦王は蒙毅に命じて法によってこれを調べさせた。蒙毅は法を曲げずに、趙高が死罪になるとして、その官籍を除籍した。

しかし始皇帝は趙高が勤勉だということで赦し、その官爵を復活させた。始皇帝は天下を巡幸しようと思い、九原(きゅうげん,陝西省)から甘泉(かんせん,陝西省)に直行することにし、蒙恬にその道を開通するように命じた。蒙恬は山を掘り崩し、谷を埋めること千八百里に及んだが、道はまだ完成しなかった。始皇三十七年(前210年)の冬、始皇帝は行幸して会稽(かいけい,浙江省)に遊び、海岸を北上して瑯邪(ろうや)に向かったが、その途中で発病した。蒙毅に命じて都に引き返して山川に祈祷させたが、まだ始皇帝の元に帰ってこなかった。

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始皇帝は沙丘(さきゅう,河北省)に進んだ所で崩じたが、崩御は秘密にされて、群臣はこれを知らなかった。この時、丞相・李斯(りし)、公子・胡亥(こがい)、中車府令・趙高(ちょうこう)が常に始皇帝の側に従っていた。趙高はかねてから胡亥の寵愛を受けており、胡亥を皇帝に立てたいと欲していた。また蒙毅が法によって自分を取り調べした時、自分に便宜を図ってくれなかったことを怨み、蒙毅を殺したいと思っていた。そこで丞相李斯、公子胡亥と謀議して、胡亥を太子に立てることにした。

胡亥は太子になると使者を派遣して、罪状を上げて公子・扶蘇(ふそ)と蒙恬に死を賜うた。扶蘇は自殺したが、蒙恬は疑いを抱いて再度の命を請うた。使者は蒙恬を役人に引き渡し留置した。胡亥は(将軍を蒙恬から交替させて)、李斯の舎人(家来)を護軍(官名)にした。使者が帰って報告すると、胡亥は扶蘇が既に自殺したと聞いて、蒙恬を許そうとした。趙高は蒙氏が再び貴位について政事に当たると、自分を怨むのではないかと思った。

蒙毅が帰ってきたが、趙高は胡亥に忠実な計略を考えているように見せて、蒙氏を滅ぼそうとしていた。趙高は言った。「臣(私)が聞くところでは、先帝は賢公子(胡亥)を挙げて太子に立てようとしていたのに、蒙毅が『いけません』と諌めていたようです。もしあなたが賢明であると知っていたのに、久しく太子に立てようとしなかったのであれば、不忠で主君を惑わせる者です。私が愚考するところでは、蒙毅を誅殺するに越したことはありません。」

胡亥はこれを聴き入れて、蒙毅を代(山西省)に投獄した。そして蒙恬は陽周(陝西省)の監獄に囚われていた。始皇帝の柩(ひつぎ)は咸陽に到着し、葬儀は終わり、太子が立って二世皇帝となった。趙高は二世に親近されて、日夜蒙氏を誹謗し、その罪過を挙げてこれを弾劾した。

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