中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。
『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』の2について現代語訳を紹介する。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』のエピソードの現代語訳:2]
そこで兵を率いて東北の范陽(はんよう,河北省)を撃った。范陽の人の朋通(かいとう)が范陽の令に言った。「ひそかに私が聞くところでは、あなたが死去されるということなので、弔いの言葉を申し上げます。とはいえ、あなたが私を活用すれば、生きながらえられるので、お祝いの言葉を申し上げます。」 范陽の令は言った。「どんな理由で弔いの言葉を言うのか?」
朋通は答えて言った。「秦の法は苛酷で、あなたは范陽の令を十年務められて、人の父を殺し人の子を孤児にして、人の足を断ち、人の首に黥(いれずみ)をした数は、とても数えることができないほどです。しかし慈父・孝子で敢えてあなたの腹中に刃を刺す者がなかったのは、ただ秦の法を畏れたからです。今、天下は大いに乱れ、秦の法は実施されていないので、慈父・孝子はまさに刃をあなたの腹中に刺して名声を上げることでしょう。これが私があなたに弔いの言葉を申し上げる理由です。今、諸侯は秦に背き、武信君の軍がすぐに攻めてきますが、あなたは范陽を堅守しておられますから、若者たちは競ってあなたを殺して武信君に降伏しようとするでしょう。あなたは急遽、私を使者として遣わし武信君に会わせてください。禍いを転じて福とすることができるのは今だけなのです。」
范陽の令(長官)は、朋通(かいとう)を使者として送り武信君に会わせた。朋通が言った。「あなたは必ず戦いに勝って土地を略取し、攻めてから後で城邑(じょうゆう)を下そうとしておられますが、私はひそかにそれは過りだと思っています。本当に私の計略をお聴きくだされば、攻めずに城邑を下し、戦わないで地を略取し、檄文(げきぶん)を伝えるだけで千里の地が平定できますがどうでしょうか?」 武信君が言った。「どういうことだ?」
朋通は言った。「今、范陽の令はその士卒を整えて籠城して戦うべき立場にありますが、卑怯にも死をおそれて貪欲に富貴(ふうき)を重んじています。ですから、天下に先んじて降服したいと思っているのですが、あなたが彼を秦から任命された役人として、先の十城邑の役人のように誅殺するのではないかとおそれているのです。しかし今、范陽の若者たちはまたその令を殺して、自力で籠城してあなたを距ごう(ふせごう)としています。あなたはどうして私に侯の印を持っていかせて、改めて彼を范陽の令に任命しないのですか。
そうすれば、范陽の令は城邑ごとあなたに降服するでしょうし、若者たちも敢えてその令を殺さないでしょう。こうしてから范陽の令を朱塗りの車輪で華美な轂(こしき)の馬車に乗せ、燕・趙の郊野を走り回らせれば、燕・趙の郊野の者たちがこれを見て、みんな、この范陽の令はまっさきに降服した者だと言って喜ぶでしょう。燕・趙の城邑は、戦わずして降服してくるでしょう。これが私のいわゆる檄文を伝えるだけで千里の地を平定できるとする理由なのです。」
武信君はこの計略に従い、朋通を通じて范陽の令に侯の印を授けた。趙の地では、これを聞いて、戦わないで城ごと降服したものが三十余りの城邑になったのである。
邯鄲(かんたん,趙の国都・河北省)に到着した時、張耳・陳余は周章(しゅうしょう)の軍が函谷関から侵入したものの戯(き,陝西省)に至って退却させられたと聞いた。また諸将が陳王のために地を平定しても、多くは讒言(ざんげん)のために罪を受けて誅せられたと聞き、陳王が自分たちの策を用いず、自分たちを将軍とせずに校尉としたのを怨んでいた。そこで武臣に説いて言った。「陳王は斬(き)で兵をあげ、陳に至ると王になりました。必ずしも六国の後を立てようとしているのではありません。将軍は今、三千人を率いて趙の数十城邑を下し、河北の地に単独で離れていますから、王にならなければこの地を鎮定できないでしょう。
また陳王は讒言を聴きますから、帰還して報告をされても、恐らく禍いを免れることはできないでしょう。また陳王は趙の地に自分の兄弟を立てたいと思うでしょうし、そうでなければ元の趙の子孫を立てるでしょう。将軍は時機を失ってはなりません、時機は素早く過ぎ去るので一息入れる余裕さえないのです。」 武臣はこれを聴き入れ、遂に立って趙王となった。そして陳余を大将軍、張耳を右丞相、邵騒を左丞相に任命した。
使者を送って陳王に報告すると、陳王は大いに怒り、武臣らの家族を皆殺しにして、兵を発して趙を撃とうとした。陳王の相国の房君(ぼうくん)が諌めて言った。「秦がまだ亡びていないのに、武臣らの家族を誅殺するのでは、またもう一つの秦を生むことになります。ここは武臣らを逆に祝賀してあげて、急遽、西のかた秦を撃たせるに越したことはございません。」 陳王はその通りだと思って、その計略に従うことにし、武臣らの家族を宮中に移して、張耳の子の敖(ごう)を成都君(せいとくん)に封じた。
陳王は使者を送って趙王(武臣)を祝賀し、趙が兵を発して西のかた函谷関に侵入するように命じた。張耳・陳余が武臣に説いて言った。「王が趙で王となられたのは、楚(陳渉)の本意ではございません。ですから、一時的に王を祝賀しているだけなのです。楚が秦を滅ぼしてしまえば、必ず趙に兵を加えてくるでしょう。どうか兵を西の秦に進めることなく、北の燕・代を平定して、南の河内(かだい)を手中に収め、自らの勢力を広めてください。趙が南は黄河を防備の拠点にし、北は燕・代を保有すれば、楚は秦に勝っても、必ず敢えて趙を制そうとはしないでしょう。」
趙王はその通りだと思って、兵を西進させず、韓広(かんこう)に燕を、李良(りりょう)に常山(山西省)を、張エン(ちょうえん)に上党(山西省)を攻略させた。韓広が燕に到着すると、燕人はこれを機会に韓広を立てて燕王とした。趙王は張耳・陳余と共に北のかた燕の国境周辺を攻略した。趙王は暇を見て出て行った時に、燕軍に捕らえられてしまった。燕の将軍は趙王を捕えて、趙がその地の半分を分け与えてくれれば帰そうと思っていた。趙の使者がしばしば燕に赴いたが、燕はその度に使者を殺して土地を要求した。張耳・陳余はこの状況を憂慮していた。一人の雑役兵が同じ兵舎のみんなに別れの挨拶をして言った。「わたしは張公と陳公のために燕を説得し、趙王と共に車に乗って帰ってこよう。」
同じ兵舎のみんなは笑って言った。「今まで使者が十人以上も行ったのに、その度に殺されているのだ。おまえなどがどうして王を連れて帰ることができるのだ?」 しかし雑役兵は燕の城壁に赴いた。燕の将軍が会うと、彼は将軍に問うて言った。「私が何を欲しているかをご存知ですか?」 燕の将軍は言った。「お前は趙王を連れ帰りたいと望んでいるだけだろう。」 「あなたは張耳・陳余がどのような人物か知っていますか?」 燕の将軍は言った。「賢人である。」 「お二人の心が何を望んでいるか知っていますか?」 「自分たちの王を助けたいと望んでいるだけだ。」 趙の雑役兵は笑って言った。「あなたはまだあのお二人が望んでいることをご存知ではありません。そもそも武臣・張耳・陳余は兵を労せずに馬鞭(むち)を杖にして歩き回っただけで、趙の十城邑を下したのです。そしてまたそれぞれが南面して王になろうと望んでおり、大臣・宰相になれればそれで良いと思っているわけでは決してないのです。
そもそも臣下と君主では同日にして談じることのできない違いがあるではないですか。顧みるに情勢が定まったばかりですので、まだ敢えて趙を三分して王にはならず、しばらくは年長者であるという理由で先に武臣を王に立てて、趙の人心をまとめたのです。今、趙の地は服従しましたので、張耳・陳余の二人もまた、趙を分割して王になりたいと望んでいるのですが、まだ時機が到来していないだけなのです。今、あなたは趙王を捕えておられます。二人は名目のために趙王を助け出そうとしていますが、実は燕が趙王を殺してくれれば良いのにと思っているのです。燕が趙王を殺せば、二人は趙を分割して自立するでしょう。そもそも今の趙一国でも、燕を軽んじています、まして二人の賢王がお互いに助け合って、趙王を殺した罪を責めてくれば、燕は簡単に滅ぼされてしまうでしょう。」
燕の将軍はその通りだと思って、趙王を帰らせることにした。雑役兵は御者になって(趙王をお連れして)帰ってきたのである。
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