『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』の現代語訳:4

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』の4について現代語訳を紹介する。

スポンサーリンク

参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』のエピソードの現代語訳:4]

漢の二年(前205年)、漢王は東のかた楚を撃とうとし、使者を送って趙に告げ、共に行動しようとした。陳余は言った。「漢が張耳を殺せば従いましょう。」 そこで漢王は張耳によく似た者を探し出してこれを斬り、その首を陳余に送った。陳余は兵を派遣して漢を助けた。しかし漢が彭城(ほうじょう,江蘇省)の西で敗れると、陳余もまた張耳が死んでいないことを覚り、漢に背いた。

漢の三年(前204年)、韓信(かんしん)が魏の地を平定した。漢王は、更に張耳と韓信を派遣して趙の井ケイ(せいけい)を撃破させた。二人は陳余を低水(ていすい)のほとりで斬り、趙王歇(えつおうけつ)も襄国まで追って殺した。漢は張耳を立てて趙王とした。漢の五年(前202年)、張耳は死んで、景王と諡(おくりな)された。子の張敖(ちょうごう)が後を嗣いで趙王として立った。高祖の長女・魯元公主(ろげんこうしゅ)が、趙王敖(ちょうおうごう)の后(きさき)となった。

漢の七年(前200年)、高祖は平城(山西省)から趙に立ち寄った。趙王は朝夕もろはだを脱いで、臂かけをはめて前だれを掛け、自ら高祖に食事を差し上げて、非常にへりくだって、女婿(じょせい)としての礼を示した。高祖は両足を投げ出して趙王を罵り、非常に慢心して侮っていた。趙の宰相の貫高(かんこう)・趙午(ちょうご)らは年齢は六十余歳、元は張耳の賓客であった。平生から意気軒昂(いきけんこう)であったが、これを見て怒って言った。「わが王は懦弱(だじゃく)な王である。」

趙王に向かって言った。「そもそも天下の豪傑が並んで起こり、能力のある者がまず王になったのです。今、わが王は高祖に対して甚だ恭しくお仕えになっているのに、高祖は無礼です。王のために高祖を殺してしまいましょう。」 張敖は指を齧み(かみ)きって血を出しながら(指を噛み切るのは誓いの証である)言った。「あなたたちは何と誤った言葉を言うのか。父は国を亡ったが(うしなったが)、高祖に頼って国を回復させることができ、その徳は子孫にまで流れている。どんなわずかなことでも、高祖の力のおかげなのである。どうかあなたたちは二度とこのようなことを口に出さないようにしてくれ。」

貫高・趙午ら十余人は相談して言った。「私たちがこのことを王に話したのは間違いだった。わが王は有徳者であり、徳に背くことはなさらない。しかし我らは義として王が辱められているのを許せない、今、高祖がわが王を辱めたことを怨むからこそ、これを殺そうと思うのである。累(るい)をわが王に及ぼすことはない。成功したらその功を王に帰し、失敗したら我々だけが罪を受ければ良い。」

スポンサーリンク

漢の八年(前199年)、高祖は東垣(とうえん,河北省)よりの帰途、趙を通過した。貫高らは人を柏人(はくじん,河北省)の宿舎に送って、壁の間に待ち伏せさせて高祖を殺そうとした。高祖は柏人で宿泊しようとしたが、ふと心が動いて胸騒ぎがして、尋ねて言った。「この県の名前は何というのか?」 配下が答えて言った。「柏人です。」 「柏人とは、人に迫るということだ。」 高祖は宿泊せずに立ち去った。

漢の九年(前198年)、貫高に怨みを抱いている者たちが、その陰謀を知って変事を上申した。そこで高祖は、趙王と貫高らを一斉にみんな逮捕した。趙午ら十余人は、みんな争うように自分で自ら刎ねた(くびはねた)。貫高は独り怒って、罵って言った。「誰があなたたちにこれをさせたのか?今、王はこの謀略を知っておられないのに、併せて捕縛されてしまった。あなたたちがみんな死んでしまっては、誰が王が反意を抱いていなかったと証明するのか。」 こうして貫高は監車(かんしゃ,囚人を収容する車)に閉じ込められ、王と共に長安に送られた。

張敖の罪を取り調べることになった。高祖は「趙の群臣・賓客であえて王についてくる者があれば、一族皆殺しにする」と詔を出した。貫高と賓客の孟舒(もうじょ)ら十余人は、みんな自ら頭髪を剃り首枷をはめて、王家の奴隷になってついてきた。貫高は到着すると取り調べに対して言った。「我々の仲間だけが秘密の謀略を巡らしたのであり、王は本当に何も知らなかったのです。」 役人が更に取り調べて笞つ(むちうつ)こと数千、鉄の針を突き刺し、全身が傷ついて撃つ所もないほどになったが、貫高はそれ以上何も言わなかった。

呂后(りょこう,高祖の后)が、張王(張敖)は魯元公主の配偶者なのだから、謀反などするはずがないとしばしば訴えた。高祖は怒って言った。「張敖が天下を取ることになったら、どうしてお前の女(むすめ)などにこだわるだろうか。」 呂后の発言を聴き入れなかった。刑吏が貫高に対する取り調べの状況と供述を伝えると、高祖は言った。「壮士である。誰か彼を知る者はいないか。私情に訴えて問い質してみよ。」 中大夫の泄公(せつこう)が言った。「私の同郷の者で、元々彼を知っています。彼は本当に趙国の中でも名を重んじて義を立てて辱めを受けず、然諾(ぜんだく,約束を受けて守ること)を重んじる人物です。」

高祖は泄公に命じて、節(使者の印)を持たせて貫高を訪ねさせた。竹の輿に乗せられた貫高は仰ぎ見て言った。「泄公か?」 泄公は苦痛をいたわって、平生のように親しみ語り合って、張王が果たして陰謀を抱いていたのかどうかを尋ねた。貫高は言った。「人情として自分の父母・妻子を愛さない者がいるだろうか?今、私の一族はみんな論難を受けて死刑に処される、どうして王のためとはいえ肉親に対する愛情を捨てられるだろうか。顧みても王は本当に謀反の意志を抱いておらず、我々だけが陰謀を巡らしていたのである。」 つぶさに今回の謀略の原因と王が全く関知していなかった事情について述べた。泄公が帰って詳しく報告すると、高祖は趙王を赦免した。

高祖はまた貫高の人柄があくまで然諾を重んじること(初期の約束を守ること)を賢明であるとして、泄公に命じて言わせた。「張王は既に出獄した。」 よって貫高も赦された。貫高は喜んで言った。「わが王は本当に釈放されたのか?」 泄公は言った。「そうだ(赦されて出獄している)。」 泄公は言った。「高祖はあなたの人物を認められた、だからあなたもお赦しになられたのだ。」

貫高は言った。「全身傷だらけになっても死ななかったのは、張王に反意がなかったことを明らかにしたかったからである。今、張王は釈放されて、私は責任を果たすことができた。死んでも恨むところはない。かつ人臣として簒奪(さんだつ)・弑殺(しいさつ)の汚名をこうむったからには、何の面目があって再び主君に仕えることができるだろうか。たとえ高祖が私を殺さなくても、私は心中で愧じない(はじない)ではいられないではないか?」

そして仰いで動脈を断ち、遂に自殺して死んでしまった。当時、貫高の名は天下に聞こえるところとなった。

張敖は釈放されて魯元公主の配偶者であるということから、宣平侯(せんぺいこう)に封じられた。また高祖は趙王の賓客たちで、首枷をはめて奴隷となり張王についていって函谷関に入ったものを賢明な士だと認めて、全員を諸侯の宰相や郡守にした。孝恵帝(こうけいてい)、高后(こうこう,呂后)、孝文帝、孝景帝の時代には、これら張王の賓客たちの子孫はみな俸禄二千石の高官になれたのである。

楽天AD

張敖は高后六年に死んだ。子の偃(えん)が魯(ろ)の元王(げんおう)になった。母が呂后の娘だったので、呂后が魯の元王に封じたのである。元王は虚弱で兄弟も少なかったので、張敖の妾腹の子二人を封じて、寿(じゅ)を楽昌侯(らくしょうこう)、侈(し)を信都侯(しんとこう)とした。高后が崩じて呂氏一族が無道だったので、大臣はこれを誅殺した。そこで魯の元王および楽昌侯、信都侯も廃した。孝文帝が即位すると、また元の魯の元王偃を南宮侯(なんきゅうこう)に封じて張氏を存続させた。

太史公曰く――張耳・陳余は世に賢者として伝え称されている。その賓客と使用人はすべて天下の俊傑であり、それぞれ居住した国で実力で大臣・宰相にならなかった者がないほどである。そして張耳・陳余ははじめ身分がなかった時は、然諾して(約束を守って)信用しあい、お互いのために死をも顧みないことに疑問のない関係であった。しかし一国の主となり権力を争うようになると、遂にお互いを滅亡させることになった。どうしてはじめはお互いに慕って信用しあう誠実さを持ちながら、後でお互いに裏切り合う非道に落ちてしまったのか。それは利を優先してしまったからではないか?名誉が高くても賓客が盛んであっても、二人のよった道は、太伯(たいはく)や延陵の季子(えんりょうのきし)の道(謙譲の道)とは異なっていた。

スポンサーリンク
楽天AD
関連するコンテンツ
Copyright(C) 2016- Es Discovery All Rights Reserved