中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。
『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 淮陰侯列伝 第三十二』の2について現代語訳を紹介する。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 淮陰侯列伝 第三十二』のエピソードの現代語訳:2]
漢軍が彭城(ほうじょう)で敗れて退却すると、塞王・司馬欣(しばきん)・テキ王・董翳(とうえい)は漢から亡げて(にげて)楚に降った。斉・趙もまた漢に背いて楚と和睦(わぼく)した。六月、魏王・豹(ひょう)が母親を看病したいという名目で休暇を願い出て国に着くと、ただちに河関(かかん,山西省にあった黄河の渡し場の関所)の交通を絶って漢に背き、楚と和睦した。
漢王は麗生(れきせい)に命じて豹を説得させたが、駄目であった。その八月、韓信を左丞相に任じて、魏を撃たせた。魏王は十分に蒲坂(ほはん,山西省)の軍備を固めて、対岸にある臨晋(りんしん,陝西省)からの水路を塞いだ。信は大軍であるように見せかけて、船を並べて臨晋から渡る振りをして、実は伏兵を置いて木罌瓦(もくおうふ、木製の瓶をつなぎ合わせて作った筏)を使って軍を渡らせ、安邑(あんゆう,山西省にあった魏の旧都)を襲撃した。
魏王豹は驚いて、兵を率いて信を迎え撃ったが、信は遂に豹を捕虜にし、魏を平定して河東郡(かとうぐん)とした。
漢王は張耳(ちょうじ)を派遣して、信と共に兵を率いて東北に進み、趙・代を撃たせた。閏九月、代の兵を破り、夏説(かえつ,代の宰相)を閼与(あつよ,山西省)で虜にした。信が魏を下し、代を破ると、漢王は使者を送ってその精兵を引き取り、ケイ陽に送って楚を防がせた。信と張耳は兵数万を率いて、東の井ケイ(せいけい,河北省)を下って趙を撃とうとした。趙王と成安君(せいあんくん)・陳余(ちんよ)は漢が今にも来襲すると聞くと、兵を井ケイ口に集め、兵力20万と称した。
広武君・李左車(こうぶくん・りさしゃ)が成安君に説いた。「聞くところによれば、漢の将軍・韓信は西河(黄河)をわたり、魏王を虜にし、夏説を捕虜にし、閼与で流血を注いだばかりであるということです。今、張耳を補佐にして、相談して趙を下そうとしているのですから、正に勝ちに乗じて国を去って遠方に戦うという状況であり、その鋭鋒には当たるべからざるものがあります。私は『千里の遠方から兵糧を送れば、輸送困難となって、戦士に飢餓の色が現れる。薪を取り草を取ってから炊飯するようでは、軍中では満腹するほどの食事はできない』と聞いております。
今、井ケイの道は狭くて、車が二台並んで通ることはできませんし、騎馬も列を組んでは通れません。そのような行程が数百里も続くのですから、勢い糧食を運ぶ輜重(しちょう)は必ず遥か後方で遅れるでしょう。どうか三万の兵を奇襲部隊として私に割いてください。私は間道づたいにその輜重を断ち切りましょう。あなたは溝を深くし、塁を高くして堅く守り、敵と合戦はしないでください。そうすれば敵は進んでも戦うことはできず、退きたくても引き返すこともできません。わが奇襲部隊がその背後を断ち切り、敵に略奪の場を与えないようにすれば、十日も経たないうちに、韓信・張耳の両将軍の首を趙王の麾下(きか)にお届けできるでしょう。どうかあなたの意を私の計略にお留めください。そうしなければ、必ず両将軍に虜にされてしまうでしょう。」
成安君は儒者であったから、常に正義の軍であると称して、詐謀・奇計を用いなかった。成安君は言った。「私は『兵法では兵力が十倍であれば敵を包囲し、二倍ならば積極的に敵と戦う』と聞いています。今、韓信の兵は数万と称しているが、その実は数千に過ぎない。しかも千里の遠方からわが国を襲うのであるから、疲労の極みにあるだろう。今、このような敵をも避けて邀撃(ようげき)しないならば、今後、大軍の敵を相手にする場合にはどう対処するのか。諸侯がわが国は卑怯であると見て、軽々しくやって来て伐つようになるだろう。」 成安君は広武君の策を用いなかった。
韓信は間諜(かんちょう)を放って趙の動向を探っていたが、間諜が広武君の策が用いられなかったことを持ち帰って報告すると、韓信は大いに喜んで、敢然として兵を率いて井ケイの狭道を下った。井ケイ口から三十里手前の地点に留まって、宿営した。その夜半、令を軍中に伝えて出発したが、軽武装の騎兵二千人を選び、一人一人に一本の赤幟(あかはた)を持たせ、間道を進んで山に隠れて趙軍を望見するように命じ、戒めて言った。「趙はわが軍が敗走するのを見れば、必ず塁壁を空にして追ってくるだろう。そうしたらお前たちは迅速に趙の塁壁に侵入し、趙の幟を抜いて、漢の赤幟を立てよ。」
副将に命じて軽い食事を全軍に配給させて言った。「今日、趙を破ってから会食しよう!」 将軍たちは誰もこんなことを信じなかったが、信じた振りをして「分かりました。」と答えた。韓信は軍吏に言った。「趙はあらかじめ有利な地点を選んで、塁壁を築いてしまっている。また趙はわが大将の旗鼓を見ないうちは、わが先陣を撃とうとはしないだろう。わが主力が途中で険阻な地点にぶつかって引き返さないだろうかと恐れているからである。」 韓信は一万人を先行させて、井ケイ口を出て、河水を背にして陣を布かせた。趙軍はこれを望見して大いに笑った。
夜明けに、韓信は大将の旗を立てて、太鼓を鳴らしながら進軍して井ケイ口を出た。趙は塁壁を開いてこれを撃った。しばらくの激戦の後、韓信・張耳は偽って鼓旗を捨て、河水のほとりの軍陣に逃げ込んだ。河水のほとりの軍は陣を開いてこれを迎え入れ、また激しく戦った。趙は果たして塁壁を空にし、漢の鼓旗を得ようと争って、韓信・張耳を追った。韓信・張耳が河水のほとりの軍陣に逃げ込んでしまうと、漢軍は死を決して戦ったので、これを敗ることはできなかった。韓信が出しておいた奇襲部隊の二千騎は、趙が塁壁を空にして獲物を追うのを見ると、趙の塁壁に馳せ入って、趙の幟をすべて抜き取り、漢の赤幟二千を立てたのである。
趙軍は勝てもせず、韓信を捕えることもできずに、引き返して塁壁に帰ろうとした。しかし、塁壁はすべて漢の赤幟だったので、大いに驚いて漢が既に趙王の将軍すべてを捕えたものと思い、兵は乱れて遁走した。趙の将軍がこれを止めようとして斬ったが、逃げることを禁止することはできなかった。こうして漢軍は趙軍を挟撃して大いに破り、軍兵を捕虜にして、成安君を底水(ていすい)のほとりで斬り、趙王・歇(あつ)を虜にした。
韓信は、広武君を殺してはならない、生け捕りにした者があれば千金で買い取ろうと軍中に命令した。すると広武君を縛って麾下に届けたものがいた。韓信はその縄を解いて、東に向いて座らせ、自分は西向きで相対し、これに師事した。諸将は敵の首級と捕虜を差し出して、みな戦勝を祝い、その時に韓信に問うた。「兵法には『山陵を右にし、背にし、水沢を前にし、左にする』とあります。しかし今回の将軍は反対に、我々に背水の陣を布かせ、『趙を破ってから会食しよう』とおっしゃいました。我々は納得できませんでした。しかし遂に勝ちました、これはどのような戦術なのでしょうか?」
韓信は答えた。「これも兵法にあり、思うに諸君が察することができなかっただけである。兵法に『軍を死地に陥れてこそ初めて生き、亡地(必ず亡ぶような状況)に置いてこそ、初めて存する』とある。それに私は普段から士大夫の心をつかんで懐かせているわけではなく、これはいわば市井の人を駆り立てて戦うようなものである。だから勢い死地に置いて各人に自発的に戦わせるようにしないで、これに生地を与えたならば、みな逃げてしまうだろう。そうなって尚、兵を用いることができるだろうか。」 諸将はみな感服して言った。「分かりました。我々の及ぶ所ではありません。」
そして韓信は広武君に問うた。「私は北の燕を攻め、東の斉を伐とう思うが、どうしたら成功するだろうか?」 広武君は謝辞して言った。「私は『敗軍の将は武勇について語るべきでなく、亡国の大夫は一国の存立について図るべきではない』と聞いております。今、私は敗亡の虜囚です。どうして大軍について図ることなどできるでしょうか。」
韓信は言った。「聞くところによれば、百里奚(ひゃくりけい)が虞(ぐ)にいて虞は亡び、秦にいて秦は覇者になったということである。百里奚が虞にいた時には愚者で、秦に行ってから智者になったわけではあるまい。百里奚を任用したのとしなかったのと、彼の言葉を聴き入れたのと聴き入れなかったのとの差である。もし成安君があなたの計略を聴き入れていたら、私ごときは虜にされていたことだろう。成安君があなたを用いなかったので、私はあなたの側に侍ることができるのである。」
更に強いて言った。「心を委ねてあなたの計に従うから、どうか言葉を無くさずにいてもらいたい。」 広武君は言った。「私は『智者も千慮(せんりょ)に必ず一失があり、愚者も千慮に必ず一得がある』と聞いております。ですから『狂人の言葉であっても、聖人はこれを選択する』と申すのです。恐れながら私の計は必ずしも用いられるに足るものがないかもしれませんが、愚忠ですがそれを披瀝致しましょう。そもそも成安君には百戦百勝の計がありましたが、一朝にしてこれを失い、軍は高(河北省)の城下で敗れ、その身は底水のほとりで殺されてしまいました。
今、将軍は西河を渡り、魏王を虜にし、夏説を閼与で捕虜にして、一挙に井ケイを下り、朝がまだ終わらないうちに趙の二十万の衆兵を破り、成安君を誅殺されました。これによって将軍の名は海内(かいだい)に聞こえ、威は天下を震わせ、農夫はどうせ国が滅びるならと耕作をやめて鋤を捨て去り、美衣美食して仮りそめの安逸を貪り、ただ耳を傾けて将軍の命令を待っているのです。これが将軍にとっての長所です。しかし将軍の士卒は疲弊しており、実は用いにくい状態にあります。しかし今、将軍は倦み疲れた兵をこぞって、これを燕の堅城の下で更に疲弊させようとしておられます。戦おうとしても、恐らく久しい時間が経ってもその力は敵城を抜くことはできず、疲弊の実情が外に現れ、勢いが尽きて空しく日を過ごすうちに兵糧も尽き果ててしまうでしょう。
弱小の燕でさえ屈服しないのであれば、斉は必ず国境に防備をして自強しようとするでしょう。燕と斉が共に持ちこたえて降服しなければ、劉・項(漢・楚)の天下の権の争奪戦は、どちらが勝つのか分からなくなります。これが将軍にとっての短所なのです。これらの長短を考えると、私は今、燕・斉を攻めるのは密かに過りだと思っています。善く兵を用いる者は、味方の短所をもって敵の長所を撃つことはなく、味方の長所をもって敵の短所を撃つのです。」
韓信は言った。「それでは、どうすれば良いのだろうか?」 広武君は答えて言った。「今の時点において将軍のために考えると、戦争を抑止して兵を休養させ、趙を鎮撫して士大夫を饗応(きょうおう)して兵に飲ませ、それから北の燕への路に向かわれるに越したことはありません。こうした後に、弁士を遣わして簡潔な書面を送り、こちらの長所を燕に明らかにすれば、燕は必ず聴従するでしょう。燕が聴従したら弁士を送って東の斉にその旨をお伝えになれば、斉は必ず風に従って服従するでしょう。智者がいたとしても、斉のためにどう計れば良いかは分からないでしょう。こうすれば、天下の大事はすべて思い通りとなります。『軍事は本来、虚声を先にして攻伐を後にする』というのはこのことを申し上げているのです。」
韓信は言った。「よろしい。」 その方策に従って、燕に使者を送った。燕は風に従って靡いた。そこで使者を送って漢に報告し、張耳を趙王に立てることによって、その国を鎮撫したいと願い出た。漢王はこれを許して、張耳を立てて趙王にした。
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