『おくのほそ道』の9:名取川を渡りて仙台に入る

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松尾芭蕉(1644-1694)が江戸時代初期の元禄時代に書いた『おくのほそ道(奥の細道)』の原文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。『俳聖』とされる松尾芭蕉の経歴・身分については様々な説がありますが、『おくのほそ道』の旅程の速度や滞在先での宿泊日数から、幕府の隠密活動を行う伊賀(三重県)の忍者だったのではないかという仮説が知られています。

『おくのほそ道』は日本屈指の『旅・俳句』を題材とした紀行文であり、『侘び・寂び・しをり・ほそみ・かろみ』などの概念で表される蕉風俳諧の枯淡な魅力を、旅情漂う文章の中に上手く散りばめています。松尾芭蕉の俳号は、『宗房(芭蕉の実名)→桃青(唐の詩人・李白と対照を為す号)→芭蕉(はせを)』へと変化しています。

紀行文『おくのほそ道』は、松尾芭蕉が弟子・河合曾良(かわいそら)を連れた旅の記録であり、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を出発して、東北地方や北陸地方の名所旧跡を巡り岐阜の大垣にまで行く旅程が記されています。江戸深川の採荼庵を出発した奥の細道の旅は、全行程が約600里(2400キロメートル)にも及び、かかった日数も約150日間という長旅でした。東北・北陸地方を巡った後の元禄4年(1691年)に芭蕉は江戸に帰りついていますが、旅先の各地で詩情溢れる優れた俳句を詠んでいます。

参考文献
『芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄』(岩波文庫),『おくのほそ道(全) 』(角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシックス),久富哲雄『おくのほそ道』 (講談社学術文庫 452)

[古文・原文]

名取川を渡りて仙台に入る。あやめ葺く日なり。旅宿を求めて、四五日逗留す。ここに画工(ぐわこう)加右衛門(かえもん)といふ者あり。いささか心ある者と聞きて、知る人になる。この者、年ごろ定かならぬ名所を考へ置き侍ればとて、一日(ひとひ)案内す。宮城野(みやぎの)の萩茂り合ひて、秋の気色思ひやらるる。玉田・横野、躑躅(つつじ)が岡はあせび咲く頃なり。日影も漏らぬ松の林に入りて、ここを木の下といふとぞ。昔もかく露深ければこそ、「みさぶらひみかさ」とは詠みたれ。

薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、その日は暮れぬ。なほ、松島・塩竈(しほがま)の所々、画(え)に書きて贈る。かつ、紺(こん)の染緒(そめを)付けたる草鞋(わらじ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてその実を顕す。

あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒

かの画図(えづ)に任せてたどり行けば、奥の細道の山際に、十符(とう)の菅(すげ)あり。今も年々十符(とう)の菅菰(すがごも)を調へて(ととのえて)国守に献ずといへり。

[現代語訳]

名取川を渡って仙台に入った。五月の端午の節句で、家の軒にはあやめ(ショウブ)が刺してある。旅先の宿を借りて、四、五日逗留することにした。仙台には画家で出版業を営んでいる加右衛門という人物がいる。その人物も俳諧の風流の心を持っていると聞き、親しくなった。

ある日、加右衛門がここ数年、古歌の歌枕として詠まれた名所で場所が不確かなものを、実際に考えて調べてみましたと語り、それらの場所を一日がかりで案内してくれた。萩の名所として名高い宮城野は、萩が深く茂り合って、花が咲き誇る秋の美しい景色を想像することができる。玉田・横野・つつじが岡は、馬酔木の花が咲く時期であった。日の光も差し込まない松林に入ったが、ここが『木の下』という歌枕の語源になったそうだ。昔もこのように露深かったのだろうか、この場所には『みさぶらひ御笠』と詠んだ古歌がある。

伊達政宗が再興した薬師堂、つつじが岡の天満宮などを参拝してその日は暮れていった。加右衛門は更に、松島・塩竃の見所を描いた絵図を贈物として贈ってくれた。そして、紺色の布製の緒をつけた草鞋二足までも餞別にくれたのである。そのようにして、この風流の道を究めた人物は、その風流・趣きを知る者の真価を発揮したのである。

あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒(今日は端午の節句であるがショウブをイメージさせる紺色の草鞋の緒を結べば、邪気を払って健康を守ってくれるショウブのように私の健脚・旅の無事を守ってくれるだろう。)

加右衛門のくれた絵図を頼りにして道を進むと、奥の細道と呼ばれる道に沿った山の麓に、古歌で詠まれる『十符の菅菰』を編む材料の菅が生えていた。十符の菅菰は、今でも毎年編んで藩主に献上されているという。十符の菅菰というのは、菰の編み目が十筋ある筵のことで、菅(すげ)という植物を材料にして編まれている。

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[古文・原文]

壺の碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城に有り。

壺の石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿(うが)ちて文字幽か(かすか)なり。四維国界(しゆいこっかい)の数里(すうり)を記す。『この城、神亀元年(じんきがんねん)、按察使(あぜち)鎮守府将軍大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)之所置也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同じく将軍恵美朝臣朝カリ(ケモノヘン+「葛」)修造にして。十二月朔日』とあり。聖武皇帝の御時に当たれり。

昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り、代(よ)変じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命(ぞんめい)の喜び、羇旅(きりょ)の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて末松山(まつしょうざん)といふ。松の間々(あいあい)皆墓原(はかはら)にて、翼(はね)を交はし枝を連ぬる契りの末も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈(しほがま)の浦に入相(いりあひ)の鍾を聞く。五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに、籬(まがき)が島もほど近し。蜑(あま)の小舟漕ぎ連れて、肴(さかな)分かつ声々に『つなでかなしも』と詠みけん心も知られて、いとど哀れなり。

その夜、目盲(めくら)法師の琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃(おくじょうるり)といふものを語る。平家にもあらず、舞にもあらず、鄙(ひな)びたる調子うち上げて、枕近うかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。

[現代語訳]

壺の石碑は高さが約2メートル、幅が約90センチほどだろうか。石碑の表面はびっしりと苔が覆っていて、刻んでいる文字もはっきりとしない。四方の国境までの距離が碑に記してある。そして、『この多賀城は神亀元年(724年)に地方巡察官及び鎮守府将軍だった大野朝臣東人が築いたものである。天平宝字6年(762年)に参議で東海道・東山道の地方監察官及び蝦夷征伐府長官である恵美朝臣朝カリが修理してこの石碑を建立した。十二月一日』と刻んである。築城の年は、奈良時代の聖武天皇の時代に当たる。

古歌に歌枕として詠まれた名所は、多く語り伝えられているが、実際に調べてみると名所の山は既に崩れ、川は流れを変え、道を改修されており、石は土中に埋まって隠れ、木は枯れて若木と世代交替している。時代が移り変わって、名所の跡であることがはっきりしないものばかりである。しかし、この壺の碑は間違いなく千年前の記念碑として存在している。この碑を目の前にすると、石碑に感動して歌を詠んだ人の気持ちが良く分かる。これが旅の徳であり、生きていることの喜びであって、長旅の苦労も忘れてしまい感激で涙が落ちるばかりであった。

その後、野田の玉川・沖の石の名所を訪れた。末の松山は、沖の石の北方にあり、今は末松山宝国寺という寺院が建てられている。近くの松原の木々の間には墓が作られていた。その墓を見ると、翼を隣で並べて二羽が一体となって飛ぶ比翼の鳥、二本の木の枝が重なり合って一体化している連理の枝のように、いつかは永遠の愛情を誓った男女もこのように亡くなってしまうのかと悲しみが高まった。

そして、塩竃の裏に到着したが、そこでは夕暮れと無常を告げる鍾の音を聞くことができた。五月雨の空がやや晴れて、夕月が僅かな光を放っており、籬ヶ島が近くに見えた。漁師の小舟が連れ立って帰り、浜辺で魚を分配する声を聞くと、『綱手かなしも』と詠んだ古人の気持ちが察せられて、しみじみとした情趣を味わうことができた。

その夜に、盲目の法師が琵琶を弾いて、奥浄瑠璃というものを語るのが聞こえた。それは平曲ではなく幸若舞でもなかったが、鄙びた調子の声を張り上げて歌うので、寝ている枕元までその声が響いてうるさかった。しかし、こんな田舎の伝統的な風習・芸能を忘れずに伝えているのは、素晴らしいものだと感嘆してしまった。

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