『徒然草』の157段~160段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の157段~160段が、このページによって解説されています。

参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます)
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第157段:筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。

あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披げ(ひろげ)ざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るる所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし。

事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強いて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

[現代語訳]

筆をもてば何か書きたいと思い、楽器を手に取れば音を出したいと思う。盃を持てば酒のことを思い、サイコロを手にすれば博打をしたいと思う。心は必ず、外部の物事に触れて動くものだ。仮であっても、不善を為すことにつながる戯れをしてはいけない。

つい気が向いた時に、仏教の経典を広げてその一句を見れば、何となくその前後の文も見えてしまう。その偶然に見えた文によって、突然、長年の誤り気がつく事もあるのだ。もし、経典を開かなかったら、この誤りには気づかなかっただろう。これは、物事に触れることによる利益である。 信心が起こらなくても、仏の前に座り、数珠を取って経を開いていれば、怠けていても自然に仏の教えが身につくものだ。また、気を散らしながらでも、縄の座椅子に座って座禅を組んでいれば、意図しなくても禅定の悟りの境地に達することもある。

事象と真理というものは、初めから二つの別々のものではない。外見の相や言葉が道理に反していなければ、必ず自己の内面も悟りに向かって成熟していく。無理に不信を言い立てる必要はない。外見だけでも良いので、仏を仰ぎ見て尊重していれば良いのである。

[古文]

第158段:『盃の底を捨つる事は、いかが心得たる』と、或人の尋ねさせ給ひしに、『凝当(ぎょうとう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候ふらん』と申し侍りしかば、『さにはあらず。魚道なり。流れを残して、口の附きたる所を漱ぐ(すすぐ)なり』とぞ仰せられし。

[現代語訳]

『盃の底に残る酒を捨ててから、人に盃を回す風習をどう思っているのか?』と、ある人が尋ねた。『その作法は凝当と申すようですが、恐らく底に凝り固まった酒を捨てるからでございましょう』とある人が答えて申し上げた。『いや、そうではない。凝当ではなく魚道(ぎょどう)というのだ。酒の流れを残して、口がついた部分を綺麗に漱いでいるのだ』とある人はおっしゃった。

※古来、複数の人が酒を飲んで盃を回す時には、盃の底に残った酒を捨ててから渡すという作法があったが、この章ではその作法・慣習の意味を語っている。

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[古文]

第159段:『みな結びと言ふは、糸を結び重ねたるが、蜷といふ貝に似たれば言ふ』と、或やんごとなき人仰せられき。『にな』といふは誤なり。

[現代語訳]

『みな結びというのは、糸を結び重ねた様子が、蜷貝に似てるからそう言うのだ』と、ある身分の高い貴人がおっしゃった。だから、蜷貝を『にながい』というのは間違いなのである。

[古文]

第160段:門に額懸くるを『打つ』と言ふは、よからぬにや。勘解由小路二品禅門(かでのこうじのにほんぜんもん)は、『額懸くる』とのたまひき。『見物の桟敷打つ』も、よからぬにや。『平張(ひらばり)打つ』などは、常の事なり。『桟敷構ふる』など言ふべし。『護摩焚く』と言ふも、わろし。『修する』『護摩する』など言ふなり。『行法も、法の字を清みて言ふ、わろし。濁りて言ふ』と、清閑寺(せいがんじ)僧正仰せられき。常に言ふ事に、かかる事のみ多し。

[現代語訳]

門に額を飾るのを『額を打つ』と言うのは正しい言い方なのか。書道の師家である勘解由小路二品禅門(藤原経尹)は、『額を懸ける』とおっしゃった。『(見物の時の)桟敷を打つ』という言い方も良いのであろうか。普通、『天幕を打つ』とは言う。しかし、『桟敷を構える』という言い方もあるのだ。

『護摩を焚く』と言うのも良くない(護摩という言葉自体に護摩を焚くという意味が含まれているので)。『修する』や『護摩する』などと言うほうが正しいだろう。『行法は、法の字を濁音無しで「ギョウホウ」と言うのは悪い。濁音できちんと「ギョウボウ」と言うべきだ』と、清閑寺の僧正がおっしゃっていた。いつも使う言葉であっても、このような間違った使い方が多いものだ。

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