『徒然草』の161段~164段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の161段~164段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第161段:花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正の後、七日とも言へど、立春より七十五日、大様違はず。

[現代語訳]

桜の花の盛りは、『冬至の日』より百五十日後とも、春分の日の二日後に訪れる『時正の日』から七日後とも言うけど、『立春の日』より七十五日後でも、桜の花の盛りということでは大きな違いはない。

[古文]

第162段:遍照寺(へんじょうじ)の承仕(じょうじ)法師、池の鳥を日来飼ひつけて、堂の中まで餌を撒きて、戸一つ開けたれば、数も知らず入り籠りける後、己れも入りて、たて籠めて、捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童聞きて、人に告げければ、村の男どもおこりて、入りて見るに、大雁どもふためき合へる中に、法師交りて、打ち伏せ、捩ぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁へ出したりけり。殺す所の鳥を頸に懸けさせて、禁獄せられにけり。

基俊大納言、別当の時になん侍りける。

[現代語訳]

遍照寺の雑役・労務をしていた法師が、池に来る鳥を日頃から飼いならして、堂の中にまで餌を撒いていた。戸を一つ開けているだけで、数えられないほど多くの鳥が餌を求めて堂の内部に入ってくる。そこへ法師は自分も入っていき戸を閉じて、池の鳥を捕えては殺している様子である。その殺生の様子が外までおどろおどろしく聞こえてくるので、草を刈っている少年が聞き咎めて人に報告した。村の男たちが集まって遍照寺の御堂に入ると、大きな雁が慌てふためきながら逃げまどう中に法師が交じっていて、その雁を打ち伏せてはねじ殺している有様である。 村の男達は法師を捕まえて、検非違使庁(警察のような当時の治安維持の担当官庁)につき出した。その法師は殺した鳥を首にかけさせられたまま、牢獄に投獄されたそうである。

基俊大納言が別当(検非違使庁の長官)の時の出来事だからかなり昔の話である。

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[古文]

第163段:太衝(たいしょう)の『太』の字、点打つ・打たずと言ふ事、陰陽の輩、相論(そうろん)の事ありけり。盛親入道申し侍りしは、『吉平が自筆の占文の裏に書かれたる御記、近衛関白殿にあり。点打ちたるを書きたり』と申しき。

[現代語訳]

太衝(陰陽道でいう9月のこと)の『太』の字は、『太』と点を打つのか『大』と点なしで良いのかという事で、陰陽に関係する人たちの間で論争になったことがあった。盛親入道が申し上げたのは、『(日本の陰陽道の始祖ともされる安倍晴明の息子である)安倍吉平が占文の裏に書いた自筆文書が近衛関白の邸宅に残されていた。それには太衝の「太」の字には点が打たれていた』ということである。

[古文]

第164段:世の人相逢ふ時、暫くも黙止する事なし。必ず言葉あり。その事を聞くに、多くは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために、失多く、得少し。

これを語る時、互ひの心に、無益の事なりといふ事を知らず。

[現代語訳]

世の人が会う時には、少しの間も沈黙していることがない。必ずそこには雑談・世間話の言葉がある。その話を聞いていると、多くは無益な雑談である。世間に流布している根拠のない噂話・評判、他人の良いことと悪いことについての雑談、自分と相手にとって失うものばかり多くて、得るものは少ない。

こういった世間話をしている時には、お互いの心に無益・無意味な話をしているという自覚がない。

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