清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど、いかがめでたからぬことなし~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
100段
淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど、いかがめでたからぬことなし。正月十日にまゐり給ひて、御文などは繁う通へど、まだ御対面はなきを、二月十よ日、宮の御方に渡り給ふべき御消息あれば、常よりも御しつらひ心異(こと)にみがきつくろひ、女房など皆用意したり。夜半ばかりに渡らせ給ひしかば、いくばくもあらで明けぬ。
登花殿(とうかでん)の東の廂(ひさし)の二間に、御しつらひはしたり。殿、上、暁に一つ御車にて、参り給ひにけり。つとめて、いととく御格子まゐりわたして、宮は御障子の南に、四尺の屏風、西、東に隔てて、北向きに立てて、御畳、御褥(おんしとね)ばかり置きて、御火桶まゐれり。御屏風の南、御帳の前に、女房いと多くさぶらふ。
まだこなたにて御髮(おぐし)などまゐるほど、「淑景舎(しげいしゃ)は見奉りたりや」と問はせ給へば、「まだいかでか。積善寺(せきぜんじ)供養の日、ただ御後(おんうしろ)ばかりをなむ、はつかに」と聞ゆれば、「その柱と屏風とのもとに寄りて、わが後より、みそかに見よ。いとをかしげなる君ぞ」と、のたまはするに、うれしく、ゆかしさまさりて、いつしかと思ふ。
紅梅の固紋(かたもん)、浮紋(うきもん)の御衣(おんぞ)ども、紅の打ちたる御衣三重が上に、ただ引き重ねて奉りたる、「紅梅には濃き衣こそ、をかしけれ。え着ぬこそ、くちをしけれ。今は紅梅は着でもありぬべしかし。されど、萌黄(もえぎ)などのにくければ。紅(くれない)にあはぬが」など、のたまはすれど、ただ、いとぞめでたく見えさせ給ふ。たてまつる御衣の色ことに、やがて御容貌(おんかたち)のにほひ合はせたまふぞ、なほ、ことよき人もかうやはおはしますらむと、ゆかしき。
さて、ゐざり入らせたまひぬれば、やがて御屏風に添ひつきてのぞくを、「あしかめり。後めたきわざかな」と、聞えごつ人々も、をかし。障子のいと広うあきたれば、いとよく見ゆ。上は、白き御衣ども、紅の張りたる二つばかり、女房の裳なめり、引きかけて、奥に寄りて東向きにおはすれば、ただ御衣などぞ見ゆる。淑景舎は、北に少し寄りて、南向きにおはす。紅梅いとあまた、濃く薄くて、上に濃き綾の御衣、少し赤き小袿(こうちぎ)、蘇枋(すおう)の織物、萌黄の若やかなる固紋の御衣奉りて、扇をつとさし隠し給へる、いみじう、げにめでたく美しと見えたまふ。
[現代語訳]
100段
淑景舎が春宮妃(とうぐうひ)として入内された時のことなど、こんなにも素晴らしいものは無かった。正月十日に入内されて、お手紙などは中宮様との間で頻繁にやり取りされていたけれど、まだ御対面はしていなかったので、二月十何日かに、中宮の御殿にいらっしゃるという連絡があったので、いつもよりも室内の装飾を立派にして磨き上げて、女房達もみんなでお迎えの用意をした。夜中頃にこちらに渡っていらっしゃったので、すぐに夜が明けてしまった。
登花殿(とうかでん)の東の廂の二間のところが、淑景舎をお迎えした場所である。父の関白殿、北の方のお二人が、明け方に一つの車で参上された。翌朝、とても早く格子を上げわたして、中宮は二間を隔てている襖障子の南に、四尺の高さの屏風を、東西の方向に北を正面に向けて立てて、御畳と御敷物だけを置いて、火鉢を差し上げている。その屏風の南、御帳台の前のところに、女房達が大勢侍っている。
まだこちらの部屋で、中宮が御髪を櫛でけずられている時に、「あなたは淑景舎を見たことがありますか」とお聞きになるので、「まだです、どうして見ることができましょうか。積善寺の供養の日に、ただ後ろ姿だけを少し拝見しましたが」と申し上げると、「そこの柱と屏風との間に寄って、私の後ろから、少し見てみなさい。淑景舎はとても美しいお方ですよ」とおっしゃるので、嬉しくて、見たい気持ちが強くなって、いつかと思う。
中宮は紅梅の固紋(かたもん)、浮紋(うきもん)の上着を、紅の打衣の三重の上にただ引き重ねてお召しになっている、「紅梅の上着には濃い紅の打衣が、よく似合う。もう私には上手く着こなせないのが、残念です。今の年齢では、紅梅など着ないほうが良いのだけれど。しかし、萌黄は好きではない。紅の打衣には合わないので」などとおっしゃるが、私にはただ非常に素晴らしいお召し物にしか見えなかった。お召しになっている着物の色合いが優れていて、そのまま美しいご容姿がその着物に映えている様子といったら、やはり、美しいと言われる淑景舎の方もこんな感じなのだろうかと思い、見たくなる。
さて、中宮様が座席にお戻りになられたので、私もそのまま屏風に寄り添って覗いたのだが、「良くないことですね。後ろめたいことですよ」と、小声で囁く人々も面白い。二間との隔ての障子は広く開け放たれているので、中がとてもよく見える。北の方は、白い上着を着て、紅の張った打衣をその下に二枚ほど、女房の裳なのだろうか、裳を引き換えて、奥のほうに寄って東向きになっていらっしゃるので、ここからはお召し物だけしか見えない。淑景舎は、北に少し寄った座席に、南向きにいらっしゃる。紅梅の内着をたくさん、濃いものと薄いものを重ねて、その上に濃い紅の綾のお召し物、少し赤い小袿(こうちぎ)、蘇芳色の織物を重ね、萌黄色の若々しい感じの固紋の上着を着て、淑景舎は檜扇で顔を隠しておられる、とても可愛らしくて美しい方のように見えた。
淑景舎は、北に少し寄りて、南向きにおはす。紅梅いとあまた、濃く薄くて、上に濃き綾の御衣、少し赤き小袿(こうちぎ)、蘇枋(すおう)の織物、萌黄の若やかなる固紋の御衣奉りて、扇をつとさし隠し給へる、いみじう、げにめでたく美しと見えたまふ。
[古文・原文]
100段(続き)
殿は、薄色の御直衣(おんなおし)、萌黄の織物の指貫、紅の御衣ども、御紐さして、廂の柱に後をあてて、こなた向きにおはします。めでたき御有様を、うち笑みつつ、例のたはぶれ言せさせ給ふ。淑景舎のいとうつくしげに、絵に描いたるやうにて居させたまへるに、宮はいと安らかに、今すこし大人びさせたまへる御けしきの、紅の御衣に光りあはせ給へる、なほ類(たぐい)はいかでか、と見えさせ給ふ。
御手水(おちょうず)まゐる。かの御方のは、宣耀殿(せんようでん)、貞観殿(じょうがんでん)を通りて、童女二人、下仕四人して、持てまゐるめり。唐廂(からひさし)のこなたの廊にぞ、女房六人ばかりさぶらふ。狭しとて、かたへは御送りして皆帰りにけり。桜の汗衫(かざみ)、萌黄、紅梅などいみじう、汗衫長く引きて、取り次ぎまゐらする、いとなまめき、をかし。
織物の唐衣どもこぼれ出でて、相尹(すけまさ)の馬頭(うまのかみ)の女少将(むすめしょうしょう)、北野宰相の女宰相の君などぞ、近うはある。をかしと見るほどに、こなたの御手水は、番の釆女(うねめ)の、青裾濃(あおすそご)の裳、唐衣、裙帯(くたい)、領布(ひれ)などして、面(おもて)いと白くて、下仕(しもづかえ)など取り次ぎまゐるほど、これはた公(おほやけ)しう唐めきて、をかし。
御膳(おもの)のをりになりて、御髮(みぐし)上(あげ)まゐりて、蔵人ども、御まかなひの髮上げて、まゐらする程は、隔てたりつる御屏風も押しあけつれば、垣間見の人、隠れ蓑取られたる心地して、あかずわびしければ、御簾(みす)と几帳との中にて、柱のとよりぞ見奉る。衣の裾、裳などは、御簾の外(と)に皆押し出だされたれば、殿、端の方より御覧じいだして、(道隆)「あれは誰そや。かの御簾の間より見ゆるは」と、咎めさせたまふに、「少納言が、物ゆかしがりて侍るならむ」と申させ給へば、「あなはづかし。かれは古き得意を。いとにくさげなる娘ども持たりともこそ見侍れ」などのたまふ御けしき、いとしたり顔なり。
あなたにも御膳(おもの)まゐる。(道隆)「羨しう、方々の皆まゐりぬめり。疾くきこしめして、翁(おきな)、女に御おろしをだに賜へ(たまえ)」など、日一日(ひひとひ)、ただ猿楽言(さるがくごと)をのみしたまふ程に、大納言殿、三位の中将、松君(まつぎみ)率て(ゐて)まゐり給へり。殿、いつしかと抱き取り給ひて、膝に据ゑたてまつり給へる、いとうつくし。狭き縁に、所狭き御装束の下襲(したがさね)引き散らされたり。大納言殿は、ものものしう清げに、中将殿は、いとらうらうじう、いづれもめでたきを見奉るに、殿をばさるものにて、上の御宿世(おんすくせ)こそ、いとめでたけれ。(道隆)「御圓座(おんわらふだ)」など聞え給へど、(大納言)「陣に着き侍るなり」とて、急ぎ立ち給ひぬ。
[現代語訳]
100段(続き)
父上の関白殿は、薄紫色の御直衣に萌黄色の織物の指貫(さしぬき)、紅の内衣を何枚もお重ねになり、入紐を差して、廂の柱に寄りかかって、こちらを向いて座っていらっしゃる。二人の娘さん(姉の中宮・妹の淑景舎)たちの素晴らしいお姿を、微笑みながら、いつもの戯れ言の冗談などをおっしゃっている。淑景舎がとても可愛らしく、まるで絵に描いた姫君のように座っていらっしゃるが、中宮はとても落ち着いていて、姉らしく少し大人っぽく見えるご様子だが、紅のお着物が照り映えるような感じで、やはり比べるもののない美しいお方に見える。
朝のお清めの水を差し上げる。淑景舎のものは、宣耀殿(せんようでん)と貞観殿(じょうがんでん)を通って、童女2人、下仕4人で持って参るようである。貞観殿との間にある廊下に、唐廂よりこちらの所に、淑景舎にお付きの女房六人ばかりが侍っている。狭いということで、半分ほどの女房は淑景舎をお送りしてから、みんな帰ってしまったのだった。童女2人は、桜襲(さくらがさね)の汗衫に、萌黄色や紅梅色などの着物が素晴らしくて、汗衫の裾を後ろに長く引いて、お清めの道具を手から手に渡していく様子は、とても美しくて面白い。
織物の唐衣が御簾から押し出されて、相尹(すけまさ)の馬頭(うまのかみ)の娘の少将、北野宰相の娘の宰相の君などが、廊下の近いところに座っている。面白いなと見ていると、中宮のお清めの水は、順番の采女が、青色の裾濃の裳に、唐衣、裙帯(くたい)、領布(ひれ)などの恰好で、顔が白粉でとても白くて、下仕たちが手に手に中宮へと渡して差し上げる様子は、淑景舎とはまた違って儀礼に沿った唐風のやり方で面白い。
朝のお食事の時になって、髪を整える女官が参上して、女蔵人たちが料理のために髪を結い上げて、中宮のところに参上する時には、隔てにしていたこの屏風も押し開けてしまったので、私のように覗き見をしていた人は、隠れ蓑を取られてしまったような気持ちになって、それでも見れないのは残念なので、御簾と几帳との間に入って、柱の外側の所から拝見した。着物の裾や裳などは、御簾の外へとすっかり押し出されているので、関白様が端の方からこれを御覧になって、「あれは誰かな。あちらの御簾の間から見えているのは」とお咎めになられたので、「少納言が、様子を見たがっているのでしょう」と中宮がお答えになり、「あぁ、恥ずかしい。清少納言は古くからの知り合いなのに。とても情けない娘達を持っていると見られてしまう」などとおっしゃるご様子は、とても自慢顔である。
淑景舎にもお食事が提供される。「羨ましいな、こちらの皆さんには食事が参ったようだ。早くお食べになられて、この爺さん・婆さんにも食べ残しを与えてくだされ」などと、一日中、ただふざけた冗談ばかりを言っているが、大納言様と三位の中将が、幼い松君を連れて参上した。関白様は早速、松君を抱き上げて膝の上にお座らせになられる、とても可愛らしい。大納言様と三位の中将は狭い縁に、場所が狭く感じられるような盛装をしていらっしゃるので、下襲が長く引き散らされている。大納言様は、でっぷり太っていて色白であり、中将様は、とても明朗な感じで、どちらも素晴らしく立派なお姿をしているのを拝見すると、関白様の御運勢もさるものながら、母上の北の方の御運命も、とても素晴らしいものである。「敷物を」などと関白様はおっしゃっているが、大納言様が「これから陣の座に到着しますから」と言って、急いでその座席をお立ちになられた。
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