清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『正月に寺に籠りたるは、いみじう寒く、雪がちにこほりたるこそ~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
116段
正月に寺に籠りたるは、いみじう寒く、雪がちにこほりたるこそ、をかしけれ。雨うち降りぬる景色なるは、いとわろし。
清水などに詣でて、局するほど、呉階(くれはし)のもとに車引き寄せて立てたるに、帯ばかりうちしたる若き法師ばらの、足駄(あしだ)といふ物をはきて、いささかつつみもなく降りのぼるとて、何ともなき経の端うちよみ、倶舎(くしゃ)の頌(ず)など誦じつつ(ずじつつ)ありくこそ、所につけてはをかしけれ。わが上るはいと危ふくおぼえて、傍に寄りて高欄(こうらん)おさへなどして行くものを、ただ板敷(いたじき)などのやうに思ひたるも、をかし。「御局してはべり。早」と言へば、沓(くつ)ども持て来ておろす。衣、上ざまに引き返しなどしたるもあり。裳(も)、唐衣(からぎぬ)など、ことことしく装束きたるもあり。深沓(ふかぐつ)、半靴(はんぐつ)などはきて、廊(ろう)のほど、沓すり入るは、内裏(うち)わたりめきて、またをかし。
内外(ないげ)許されたる若き男ども、家の子など、あまた立ち続きて、「そこもとは落ちたる所侍り。あがりたり」など、教へ行く。何者にかあらむ、いと近くさし歩み、先立つ者などを「しばし。人のおはしますに、かくはせぬわざなり」など言ふを、げにと、少し心あるもあり。また、聞きも入れず、まづ我、仏の御前にと思ひて行くもあり。局に入るほども、居並みたる(いなみたる)前を通り行けば、いとうたてあるを、犬防(いぬふせぎ)のうち見入れたる心地ぞ、いみじう尊く、などてこの月頃も詣でで過しつらむと、まづ心もおこる。
[現代語訳]
116段
正月に寺にお籠りしたのは、たいそう寒くて雪もちらつくように冷え込んでいたが、それが情趣があるのだ。雨が降ってきそうな景色などは、あまり良くない。
清水などにお参りして、局ができるまでの間、お堂に上る呉階(くれはし)の所に車を引き寄せて立てかけていると、腰衣に帯だけ締めた若い法師たちが、足駄(あしだ)という物を履いて、まったく恐れもせずにその呉階を上ったり降りたりしているが、何でもない経典の一部を口ずさんだり、倶舎(くしゃ)の頌(ず)などを唱えながら歩いている、ちょっと変わっているがお寺らしくて面白い。自分が上る番になるととても危なく感じられて、脇に寄って高欄(手すり)につかまるなどして上っていくのに、法師たちは普通の板敷の上を歩くような感じなのは面白い。「ご参詣の局の準備ができております。どうぞ」と法師が言うと、沓(くつ)などを持ってきて女たちを下ろす。着物を上の方にまで上げて、裾をはしょっている女もいる。裳や唐衣などで、大袈裟に正装してきている女もいる。深沓(ふかぐつ)、半靴(はんぐつ)などを履いて、回廊を沓を引きずりながら入って行くのは、宮中の中のような感じがして、また面白い。
奥の間へ行くことが許されている男たちやその従者など、大勢の人が従っていて、「そこの辺りは一段低くなっている所がございます。高くなっている所がございます」など、法師が足元の状態を教えながら進んでいく。何者なのだろうか、女主人のとても近くを歩いていて、先に行く者に対して、「ちょっと待ちなさい。高貴な人がいらっしゃるのに、このような振る舞いはしてはならないものだ」などと言うと、本当にそうだと、少し遠慮して道を空ける者もいる。また、そんなことは聞きもせず、まず自分が先に仏の御前に行きたいと思ってそのまま行く者もいる。自分の局(座り場所)に着くまでも、大勢の人が座っている局の前を通って行くのだから、とても憂鬱なものなのだが、犬防(いぬふせぎ)の中を覗いた気持ちは、とてもありがたいもので、どうしてこの何ヶ月もの間、お参りせずに過ごしたのだろうかという、信心の気持ちも起こってくるのだ。
[古文・原文]
116段(続き)
御みあかしの、常燈(じょうとう)にはあらで、うちにまた、人の奉れるが、恐ろしきまで燃えたるに、仏のきらきらと見え給へるは、いみじう尊きに、手ごとに文どもを捧げて、礼盤にかひろき誓ふも、さばかりゆすりみちたれば、取り放ちて聞きわくべきにもあらぬに、せめてしぼり出でたる声々の、さすがにまた紛れずなむ。
「千燈(せんとう)の御志は、なにがしの御ため」などは、はつかに聞ゆ。帯うちして、拝み奉るに、「ここに、つかうさぶらふ」とて、樒(しきみ)の枝を折りて持て来たるは、香などのいと尊きもをかし。
犬防(いぬふせぎ)の方より、法師寄り来て、「いとよく申し侍りぬ。幾日(いくか)ばかり籠らせ給ふべきにか。しかしかの人、籠り給へり」など言ひ聞かせて去ぬるすなはち、火桶、くだものなど持て続けて、半挿(はんぞう)に手水(ちょうず)入れて、手もなき盥(たらい)などあり。(法師)「御供の人は、かの坊に」など言ひて、呼びもて行けば、かはりがはりぞ行く。
誦経(ずきょう)の鐘の音など、わがななり、と聞くも頼もしうおぼゆ。傍(かたわら)に、よろしき男の、いと忍びやかに額などつく立ち居のほども、心あらむと聞えたるが、いたう思ひ入りたる氣色にて、寝も寝ず(いもねず)行ふこそいとあはれなり。うちやすむ程は、経を高うは聞えぬほどに読みたるも、尊げなり。うち出でさせまほしきに、まいて、鼻などを、けざやかに聞きにくくはあらで、忍びやかに、かみたるは、何事を思ふ人ならむ、かれをなさばやとこそ覚ゆれ。
日ごろ籠りたるに、昼は少しのどやかにぞ、早くはありし。師の坊に、男ども、女、童など皆行きて、つれづれなるに、傍に貝をにはかに吹き出でたるこそ、いみじう驚かるれ。清げなる立文持たせたる男などの、誦経(ずきょう)の物打ち置きて、堂童子(どうどうじ)など呼ぶ声、山彦響きあひて、きらきらしう聞ゆ。鐘の声、響きまさりて、いづこのならむと思ふ程に、やむごとなき所の名うち言ひて、「御産(ごさん)平らか(たいらか)に」など、げんげんしげに申したるなど、すずろに、いかならむなど、覚束なく念ぜらるかし。これは、ただなる折の事なり。正月などは、唯いと騒がしき。物望みする人など、隙なく詣づるを見るほどに、行ひもしやらず。
[現代語訳]
116段(続き)
仏前のお燈明が、お寺の常燈ではなくて、内陣でまたその他の人がお供えした燈明なのだが、恐ろしいほどに燃え盛っていて、その炎で本尊の仏(十一面観音)がきらきらと光って見えるのは、とてもありがたいことで、法師たちは手に手に参詣者の願文を捧げ持って、礼拝の座で火にゆらめきながら願を立てて誓っているのも、大勢の人の声で騒がしく満ちているから、一つだけ取り出してどんな言葉かを聞き分けることはできないが、法師たちが絞り出した大きな声は、やはり何とか他の声に紛れずに聞き取ることができる。
「千燈の志は、誰々のため」などという言葉は、僅かに聞こえる。私も帯を引き締めて、ご本尊にお参りしていると、「ここに、お持ち致しました」と法師が言って、樒(しきみ)の枝を折って持って来たのは、香が良くてとても尊い感じで素晴らしい。
犬防の内陣の方から、法師が近寄ってきて、「とてもよく仏様に申し上げておきました。何日ほどお籠りでいらっしゃいますか。今、これこれのお方が、お籠りでいらっしゃいます」など言って聞かせて帰っていくと、すぐに火鉢や間食のくだもの(お菓子)など続けざまに持ってきて、半挿(はんぞう)に手洗いの水を入れて、それを受けるための角のない盥なども持ってくる。「お供の方たちは、あの宿坊にどうぞ」など言って、呼んで連れていくので、交代で行く。
誦経(ずきょう)の鐘が打ち鳴らされると、あれは自分の鐘の音だろうと思って聞くのも、ご利益があるようで頼もしく思ってしまう。隣の局で、高貴な身分の男が、とても静かにひっそりと礼拝している立ち居振る舞いも、信心があるように聞こえるが、その男がひどく思い詰めたような様子で、夜も全く眠らずにお勤めしているのはとても悲しげである。横になって休む時には、お経を声高には聞こえないように読んでいるが、それもありがたい感じである。もっと大きな声で唱えさせたいが、まして、鼻などを大きな音を立てることなく、ひっそりと噛んでいるのは、どんな事を思って祈っている人なのだろうか、その願いを叶えて上げてほしいものだと思った。
何日も籠っていると、以前は昼間は少しのんびりした感じだった。法師たちの宿坊に、お供の男達、女、子供なども皆休みに行って、手持ち無沙汰でいると、隣で午(うま)の時を伝える法螺貝(ほらがい)を急に吹き始めたのには、とても驚かされた。綺麗な立文を供の者に持たせた男などが、誦経(ずきょう)のお布施の品をそこに置いて、堂の童子などを呼ぶ声が、近くの山彦の響きも合わさって、派手に聞こえる。鐘の音が、響きわたって、いったいどこの屋敷の音だろうなどと思っていると、高貴なお方の名前を言って、「ご出産が、無事でありますように」などと、効験(くげん)がいかにもあるように申し上げると、突然、出産がどうなるのだろうかと心配になって、知らない相手のことだけれど、仏様に祈念するしかなかった。これは、普通の時のお話である。正月などは、ただとても騒がしいばかりである。除目(じもく)の人事で任官を望む人などが、ひっきりなしに参詣しているのを見ると、十分に仏様にお勤めすることもできない。
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