清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『まめごとなども言ひあはせてゐたまへるに~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
132段(終わり)
まめごとなども言ひあはせてゐたまへるに、「栽ゑて(うえて)この君と称す」と誦じて(ずじて)、また集まり来たれば、(行成)「殿上にて言ひ期しつる本意もなくては、など、帰り給ひぬるぞと、怪しうこそありつれ」と、のたまへば、「さることには、何の答へ(いらえ)をかせむ。なかなかならむ。殿上にて言ひののしりつるを、上も聞しめして興ぜさせおはしましつ」と、語る。頭の弁もろともに、同じことを返す返す誦(ず)じたまひて、いとをかしければ、人々、皆とりどりにものなど言ひ明して、帰るとてもなほ、同じことを諸声(もろこえ)に誦じて、左衛門の陣入るまで聞ゆ。
つとめて、いと疾く(とく)、少納言の命婦(みょうぶ)といふが御文まゐらせたるに、この事を啓したりければ、下なるを召して、「さる事やありし」と問はせ給へば、「知らず。何とも知らで侍りしを、行成の朝臣のとりなしたるにや侍らむ」と申せば、「とりなすとも」とて、うち笑ませ給へり。誰が事をも、殿上人ほめけり、など聞こしめすを、さ言はるる人をもよろこばせ給ふも、をかし。
[現代語訳]
132段(終わり)
真面目な話などもしていらっしゃるところに、「植えてこの君と称す」と吟じながら、また先ほどの殿上人たちがやって来たので、(行成)「殿上の間で話し合ってきた本来の目的も果たさないで、どうして帰ってしまったのかと不思議に思っていました」とおっしゃると、(殿上人)「あんな素晴らしいやり取りに、どんな答えができるでしょうか。なかなか難しいものです。殿上の間でみんなで大騒ぎしていたのを、帝もお聞きになっていて面白がっておられました」と語った。頭の弁も一緒になって、同じようなこの君と称すという詩を何度も何度も吟じなさって、とても面白いので、女房たちもみんな出てきてそれぞれ殿上人たちと一晩中語り明かして、帰る時になってもなお、同じ詩を声を合わせて一緒に吟じ、左衛門の陣に入るまでその声が聞こえていた。
翌朝のとても早い時間、少納言の命婦という人が帝のお手紙を中宮にお持ちした時、この事を申し上げたので、局に下がっていた私をお呼び出しになって、「そんな事があったのか」とお聞きになるので、「知りません。何かは知らないでそう言っただけですので、行成の朝臣が上手くとりなしてくれたのでしょうか」と申し上げると、「とりなしたと言っても」と言って、にっこりとお笑いになった。女房の誰にしても殿上人が褒めたとお聞きになるのを、そう言われた女房のことについてお喜びになるのも、(中宮様のお人柄が偲ばれて)素敵である。
[古文・原文]
133段
円融院(えんゆういん)の御果(おんはて)の年、皆人(みなひと)、御服ぬぎなどして、あはれなる事を、おほやけより始めて、院の人も、「花の衣に」などいひけむ世の御事など思ひ出づるに、雨のいたう降る日、藤三位(とうさんみ)の局に、蓑虫(みのむし)のやうなる童の大きなる、白き木に立文を付けて、「これ、奉らせむ」と言ひければ、「いづこよりぞ。今日、明日は物忌(ものいみ)なれば、蔀(しとみ)もまゐらぬぞ」とて、下は立てたる蔀より取り入れて、さなむとは聞かせたまへれど、(藤三位)「物忌なれば、見ず」とて、上についさして置きたるを、つとめて、手洗ひて、「いで、その昨日の巻数(かんず)」とて、請いいでて、伏し拝みてあけたれば、胡桃色(くるみいろ)といふ色紙の厚肥え(あつごえ)たるを、あやしと思ひて、あけもていけば、老法師のいみじげなるが手にて、
これをだに かたみと思ふに 都には 葉がへやしつる 椎柴(しひしば)の袖
と書ひたり。いとあさましう、ねたかりけるわざかな、誰がしたるにかあらむ。仁和寺(にんなじ)の僧正のにや、と思へど、よにかかる事のたまはじ、藤大納言(とうだいなごん)ぞ、かの院の別当におはせしかば、そのし給へる事なめり、これを、上の御前、宮などに、疾くきこしめさせばや、と思ふに、いと心もとなくおぼゆれど、なほいと恐ろしう言ひたる物忌し果てむとて、念じ暮して、またのつとめて、藤大納言の御許(おんもと)に、この返しをしてさし置かせたれば、すなはち、また返しておこせたまへり。
[現代語訳]
133段
円融院の喪(諒闇)が明けた年、みんな喪服を脱ぐなどして、帝をはじめとしてしみじみとした感じに浸って、院に仕えていた人も「(遍昭僧正が)花の衣に」などと詠んだ昔の世の中の事などを思い出していたが、雨がひどく降る日、藤三位の局に、蓑虫のような恰好をした大きな子供が、白く削った木に立文を付けて、「これを差し上げて下さい」と言ったので、女房が「どこからの手紙ですか。今日、明日は物忌でいらっしゃるから、蔀も上げないですよ」と答えて、下の方を閉めたままの蔀から取り入れて、藤三位はその様子を取次の者からお聞きになったが、「物忌だから見ない」と言って、上の方に突き刺しておいたのを、翌朝に手を洗って清めて、「さぁ、その昨日の巻数を拝見しましょう」と言って、取ってもらって、伏し拝んで開けてみたところ、胡桃色という色紙の厚ぼったい手紙なので、不思議に思って開けていくと、老法師のようなもったいぶった筆蹟で、
これをだに かたみと思ふに 都には 葉がへやしつる 椎柴(しひしば)の袖
田舎ではせめてこの喪服だけでも法皇(院)の形見と思っていますが、都のほうでは既に喪服を脱いでいつもの着物に着替えてしまったでしょうか。
と書いてある。全く浅ましくて、憎たらしい歌だな、誰がこの歌を書いたのだろうか。仁和寺の僧正だろうかと思ったけれど、まさかあの人がこんな事はおっしゃらないだろう、藤大納言が円融院の長官でいらっしゃったから、それでしたことなのだろう、このことを帝や中宮様に早くお聞かせしたいものだと思うと、とても気持ちが落ち着かなく感じるけれど、やはりとても恐ろしいと言われる物忌をやり終えてしまおうと思って、我慢して暮らして、翌朝早く、藤大納言のところに、この歌の返歌をして置かせてきたところ、すぐにまた藤大納言の方から返歌を寄越してきたのだった。
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