清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『八幡の行幸の還らせたまふに、女院の御桟敷のあなたに御輿とどめて~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
124段
八幡の行幸の還らせ給ふに、女院の御桟敷のあなたに御輿とどめて、御消息申させ給ひしなど、いみじくめでたく、さばかりの御有様にてかしこまり申させ給ふが、世に知らずいみじきに、まことにこぼるばかり、化粧じたる顔、皆あらはれて、いかに見苦しからむ。
宣旨(せんじ)の御使にて、斉信(ただのぶ)の宰相の中将の御桟敷へまゐり給ひしこそ、いとをかしう見えしか。ただ随身(ずいじん)四人、いみじう装束きたる馬副(うまぞひ)の細く白くしたてたるばかりして、二条の大路の広くきよげなるに、めでたき馬をうち早めて急ぎまゐりて、すこし遠くより降りて、そばの御簾(みす)の前にさぶらひ給ひしなど、いとをかし。
[現代語訳]
124段
帝が石清水八幡宮の行幸からお帰りになられる時、女院(にょいん)のご見物の桟敷(さじき)の向こうに御輿を止めて、ご挨拶を申し上げなさったのは、とても素晴らしくて、帝という最高の身分でありながら母上様に畏まって申し上げるのは、この世にまたとないほどに素晴らしいことである。本当に涙がこぼれるように落ちて、化粧をしていた顔がみんな化粧が落ちて見えてしまい、どんなに見苦しいことだろう。
帝の宣旨のお使いとして、斉信(ただのぶ)の宰相の中将が女院の桟敷に参上したのは、とても美しく見えたものだった。ただ随身を四人だけ、派手な装束を着た馬副(うまぞい)の細くて色を白くした者だけを引き連れて、二条の大路の広くて綺麗にしてある道を、素晴らしい馬を早駆けさせて急いで参上して、少し離れた所で馬を降りて、近くの御簾の前に伺候したのはとても素晴らしい。
[古文・原文]
124段(終わり)
御返(おかへり)うけたまはりて、また帰りまゐりて、御輿のもとにて奏し給ふほどなど、言ふもおろかなり。
さて、内のわたらせ給ふを見たてまつらせ給ふらむ御ここち、思ひやりまゐらするは、飛び立ちぬべくこそおぼえしか。それには、長泣きをして笑はるるぞかし。よろしき人だに、なほ、子のよきは、いとめでたきものを、かくだに思ひまゐらするもかしこしや。
[現代語訳]
124段(終わり)
女院のご返事を承って、また大路を帰って帝の所へ参上して、御輿に近づいて奏上なさる所など、言いようがないほどの素晴らしさである。
さて、帝が御前の内を通って還御(かんぎょ)なされるのを見ている女院のお気持ち、それを思いやると、ぞくぞくして飛び立つような感じを覚えた。こういった時には、長く泣きに泣いてしまって女房たちから笑われてしまう。身分が高くない人だって、やはり子が昇進するのはとてもおめでたいことなのに、このように女院のお気持ちを推察するのも畏れ多いことである。
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