清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『むとくなるもの 潮干の潟にをる大船~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
121段
むとくなるもの
潮干の潟(しおひのかた)にをる大船。大きなる木の、風に吹き倒されて根をささげて横たはれ伏せる。えせ者の、従者(ずさ)かうがへたる。
人の妻(め)などの、すずろなるもの怨じなどして隠れたらむを、かならず尋ね騒がむものぞと思ひたるに、さしもあらず、ねたげにもてなしたるに、さてもえ旅だちゐたらねば、心と出で来たる。
122段
修法(ずほう)は、奈良方(ならがた)。仏の御しんどもなど、よみたてまつりたる、なまめかしう尊し。
[現代語訳]
121段
恰好つかないもの(形無しな恥ずかしいもの)
潮の引いた干潟に乗り上げた大船。大きな木が風に吹かれて倒されて、根を空に向けて横倒れになっている。身分の低い者が、従者を叱りつけている様子。
人の妻などが、下らない嫉妬などをして家出していなくなったのを、必ず夫が騒いで捜し回るに違いないと思っていたのに、そういう風にはならずに、憎たらしく平気な顔で過ごしているので、そんなにいつまでも旅のように出かけているわけにもいかず、自分から家に帰ってきた時。
122段
加持祈祷の修法は、奈良方(ならがた)が良い。仏のご加護を信じる真言を読み上げるのは、気品のある感じがして尊いものだ。
[古文・原文]
123段
はしたなきもの
異人(ことひと)を呼ぶに、我ぞとて、さし出でたる。物など取らするをりは、いとど。おのづから人の上などうち言ひ謗り(そしり)たるに、幼き子どもの聞き取りて、その人のあるに、言いいでたる。
あはれなる事など、人の言ひいで、うち泣きなどするに、げにいとあはれなりなど聞きながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし。泣き顔作り、けしき異になせど、いと甲斐なし。めでたき事を見聞くには、まずただ出で来(いでき)にぞ出で来る。
[現代語訳]
123段
ばつが悪いもの(間が悪いもの)
別の人を呼んだのに、自分かと思って顔を出した時、何か物などを貰う時には、いっそう余計に間が悪い。それとなく人の噂話をして悪口を言ったのに、幼い子どもがそれを聞いて覚えていて、その人のいる前で言ってしまった時。
悲しい事などを人が語りだして、泣いたりしているのに、本当に可哀想なことだと聞きながら、涙がすぐに出てこないのは、とてもばつが悪いものだ。泣き顔を作って、悲しそうな雰囲気を装っても、全く意味がない。逆に、素晴らしいことを見たり聞いたりすると、すぐにどっと感動の涙が出てきてその涙が止まらなかったりするのだ。
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