『枕草子』の現代語訳:120

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『よろづのことよりも、わびしげなる車に装束わるくてもの見る人、いともどかし~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

223段

よろづのことよりも、わびしげなる車に装束わるくてもの見る人、いともどかし。説経(せきょう)などは、いとよし。罪失ふことなれば。それだになほ、あながちなるさまにては見苦しきに、まして、祭などは、見でありぬべし。下簾(したすだれ)なくて、白きひとへの袖などうち垂れてあめりかし。ただその日の料と思ひて、車の簾もしたてて、いとくちをしうはあらじと出でたるに、まさる車など見つけては、なにしにとおぼゆるものを、まいて、いかばかりなる心にて、さて見るらむ。

よき所に立てむと急がせば、疾く出でて、待つほど、居入り立ち上がりなど、暑く苦しきに極ずる(ごうずる)ほどに、斎院(さいいん)の垣下(ゑが)にまゐりける殿上人(てんじょうびと)、所の衆、弁(べん)、少納言など、七つ八つと引き続けて、院の方より走らせて来るこそ、事なりにけりと驚かれて、嬉しけれ。

もの見の所の前に立てて見るも、いとをかし。殿上人、もの言ひにおこせなどし、所の御前どもに水飯(すいはん)食はすとて、階(はし)のもとに馬ひき寄するに、おぼえある人の子どもなどは、雑色(ぞうしき)などおりて、馬の口取りなどして、をかし。さらぬ者の、見も入れられぬなどぞ、いとほしげなる。

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[現代語訳]

223段

他のどんなことよりも、みすぼらしい車に見栄えの悪い飾り付けをして見物する人は、とても気に入らない。説経を聞く時などは、それでも良いだろう。罪を減らすためなのだから。それでもやはり、あまりにみすぼらしい様子は見苦しいのに、まして、祭などは、そんな姿ならば見物しなければ良いのに。そのような車は、下簾もなくて、白いひとえの袖などを外に垂れているものが多い。私などは、ただその日のためにと思って、車の簾も新調して、これならそんなに悪くはあるまいと思って出かけたところ、自分よりも立派な車などを見つけると、何のために出かけたのだろうと思ってしまうのに、まして、そんなみすぼらしい車の者どもは、いったいどんな気持ちで、祭の見物に出てきているのだろうか。

良い場所に車を立てようと急がせるので、朝早く家を出て、行列を待つ間、車の中に座り込んでみたり立ち上がってみたりで、暑くて苦しくて疲れきってしまうところに、斎院の饗宴の相伴に参上した殿上人、蔵人所の衆、弁官、少納言などが、7~8台の車を連ねて、斎院の方から走らせてくるので、やっと行列がやって来るのだと思って驚いて、嬉しくなったのである。

見物の桟敷(さじき)の前に車を立てて見物するのも、とても面白い。殿上人が、挨拶のために人を寄越したりするし、蔵人所の先駆けの者たちに水飯(すいはん)を振る舞うというので、先駆け(前駆)たちが桟敷の階段の所に馬を引いて近寄ると、その中の名門の家柄の子弟たちに対しては、下僕などが降りてきて、馬の口を取ったりなどして、面白い。そうではない者どもの、目も掛けられない様子は、可哀想なものである。

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[古文・原文]

223段(終わり)

御輿(みこし)の渡らせ給へば、轅(ながえ)どもある限りうちおろして、過ぎさせ給ひぬれば、まどひあぐるも、をかし。その前に立つる車は、いみじう制するを、「などて立つまじき」とて、強ひて立つれば、言ひわづらひて、消息(しょうそこ)などするこそ、をかしけれ。

所もなく立ち重なりたるに、よき所の御車、人だまひひき続きて多く来るを、いづこに立たむとすらむと見るほどに、御前ども、唯下りに下りて、立てる車どもを唯のけにのけさせて、人だまひまで立て続けさせつるこそ、いとめでたけれ。追ひさけさせつる車どもの、牛かけて、所ある方にゆるがし行くこそ、いとわびしげなれ。きらきらしくよきなどをば、いとさしも押しひしがず。

いと清げなれど、またひなび、あやしき下衆など絶えず呼び寄せ、ちご出だし据ゑなどしたるもあるぞかし。

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[現代語訳]

223段(終わり)

斎王の御輿(みこし)が前をお通りになると、見物している車は轅(ながえ)を外してから地面に置き、御輿が過ぎ去ってしまうと、また轅を上に上げるのも、面白い。桟敷の前に立てている車は、うるさく静止するのも聞かず、「どうして立ててはいけないのか」と言って、強引に立てると、下人はそれ以上言うこともできなくなって、主人にその事の次第をお伝えするなどするのは、面白い。

場所もなく車が立ち重なっている所に、良い家柄のお方のお車が、お供の車を引き連れて何台もやってくるのを、いったいどこに立てようとするのかと見ていると、先駆けの者どもが馬から下りて、立っている車どもを強引にどんどんのけさせて、そこにお供の車なども続けて立てていったのは、(身分の高い人の権威が示されるようで)本当に素晴らしい。先駆けの者どもに追ってのけさせた車たちが、牛をかけて、場所が空いている方へ揺るがして行くのは、本当に惨めなことである。きらびやかで身分の高い人の車などに対しては、そのような強引な押しのけはしない。

とてもこざっぱりしているが、また田舎びてもいて、身分の低い者どもを絶えず呼び寄せたり、子供を簾の外に座らせているような車もあるのである。

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