『枕草子』の現代語訳:110

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『心にくきもの  もの隔てて聞くに、女房とはおぼえぬ手の~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

192段

心にくきもの

もの隔てて聞くに、女房とはおぼえぬ手の、忍びやかにをかしげに聞えたるに、答へ若やかにして、うちそよめきて参るけはひ。ものの後、障子など隔てて聞くに、御膳(おもの)まゐるほどにや、箸(はし)、匙(かひ)などとりまぜて鳴りたる、をかし。提(ひさげ)の柄の倒れ伏すも、耳こそとまれ。

よう打ちたる衣の上に、騒がしうはあらで、髪の振りやられたる、長さおしはからる。

いみじうしつらひたる所の、大殿油(おほとなぶら)はまゐらで、炭櫃(すびつ)などにいと多くおこしたる火の光ばかり照りみちたるに、御帳(みちょう)の紐などのつややかにうち見えたる、いとめでたし。御簾(みす)の帽額(もこう)、総角(あげまき)などに上げたる鈎(かぎ)のきはやかなるも、けざやかに見ゆ。よく調じたる火桶(ひおけ)の、灰の際(きわ)清げにておこしたる火に、内に描きたる絵などの見えたる、いとをかし。箸のいときはやかにつやめきて、筋かひ立てるも、いとをかし。

夜いたく更けて、御前にも大殿籠り(おおとのごもり)、人々皆寝ぬる後、外の方に殿上人などに物など言ふ。奥に、碁石の笥(け)に入るる音、あまたたび聞ゆる、いと心にくし。火箸(ひばし)を忍びやかに突い立つるも、まだ起きたりけりと聞くも、いとをかし。なほ、い寝ぬ人は、心にくし。人の臥したるに、もの隔てて聞くに、夜中ばかりなどうちおどろきて聞けば、起きたるななりと聞えて、言ふことは聞えず、男も忍びやかにうち笑ひたるこそ、何事ならむとゆかしけれ。

また、おはしまし、女房などさぶらふに、上人(うえびと)、内侍のすけなど、はづかしげなるまゐりたる時、御前近く御物語などあるほどは、大殿油も消ちたるに、長炭櫃(ながすびつ)の火に、もののあやめもよく見ゆ。

殿ばらなどには、心にくき今まゐりの、いと御覧ずる際にはあらぬほど、ややふかしてまうのぼりたるに、うちそよめく衣の音なひなつかしうゐざり出でて、御前にさぶらへば、ものなどほのかにおほせられ、子めかしうつつましげに、声の有様、聞ゆべうだにあらぬほどに、いと静かなり。女房、ここかしこに群れゐつつ物語うちし、おりのぼる衣の音なひなど、おどろおどろしからねど、さななりと聞えたる、いと心にくし。

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[現代語訳]

192段

奥ゆかしいもの

物を隔てて聞いていると、女房とは思えない手で、こっそりと人を呼ぶ綺麗な声が聞こえてきたが、返事の声は若々しい感じで、衣擦れの音をさせながら参上する気配。物影、襖などを隔てて聞いていると、お食事を召し上がっているのだろうか、箸、匙などの音が入り混じって聞こえたのは面白い。金属の器のつるが倒れて横になった音にも、耳が引き付けられる。

よく打ってつやを出した衣の上に、乱れてはいない様子で髪が振りかけられたのは、長さがどれくらいか推し量られる。

立派に整えている所で、明かりは差し上げないで、炭櫃などにたくさん起こした火の光だけが周囲を照らしているのに、御帳台の紐などがつややかに見えているのは、とても素晴らしい。御簾(みす)の帽額(もこう)や総角(あげまき)に結んだものに御簾を巻き上げた鈎(かぎ)が、くっきりしているのも、はっきりと見える。立派に新調した火桶の、灰の際を綺麗にして起こした火の光で、内側に描いた絵などが見えたのは、とても美しい。火箸がとてもはっきりつやつやと光って、交差して立てかけてあるのも、とても美しいものだ。

夜がとても更けて、中宮様もおやすみになられ、女房たちも皆寝てしまった後で、外の方にいる殿上人たちとお話をしている。奥で、碁石を笥(け)に入れる音が、何回も聞こえるのは、とても奥ゆかしい。火箸を静かに灰に突き立てるのも、まだ起きていたんだなと聞くのも、とても情趣がある。やはり、夜に眠らない人は、奥ゆかしい。人が寝ているのを、物を隔てて聞く時など、夜中などにふと目を覚まして聞くと、起きているらしいような感じに聞こえて、話す声は聞こえず、男もこっそりと笑った時には、何事を話しているのだろうと聞きたくなる。

また、中宮様もいらっしゃって、女房などが侍っているのに、殿上人や典侍(ないしのすけ)など、気後れしてしまう高貴な人が参った時、御前近くで中宮様がお話などをなされる時には、明かりも消しているけれど、長炭櫃の火で、物の細かいところまでも良く見える。

若殿たちには、奥ゆかしい新参の女房が、特別にお目をかけるほどの身分ではないが、やや夜が更けてから参上した時、衣擦れの音が優しい感じで、膝行でにじり出て、御前に侍ると、中宮様は小さな声で何かおっしゃられて、子供のように慣れておらず遠慮がちに、答える声の様子も聞こえないほどに小さなもので、辺りもとても静かである。女房たちが、あちこちに集まって話をしており、部屋に参上したり降りたりする衣擦れの音など、大げさではないのだけれど、それと分かるように聞こえるのは、とても奥ゆかしいものである。

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[古文・原文]

192段(終わり)

内裏(うち)の局(つぼね)などに、うちとくまじき人のあれば、こなたの火は消ちたるに、かたはらの光の、ものの上などよりとほりたれば、さすがにもののあやめはほのかに見ゆるに、短き几帳引き寄せて、いと昼はさしも向はぬ人なれば、几帳のかたに添ひ臥してうち傾きたる頭つきのよさあしさは隠れざめり。直衣(なほし)、指貫(さしぬき)など、几帳にうち掛けたり。六位の蔵人の青色もあへなむ。緑そう(ろうそう)はしも、後のかたにかいわぐみて、暁にもえ探りつけで、まどはせこそせめ。

夏も冬も、几帳の片つ方にうち掛けて人の臥したるを、奥の方よりやをらのぞいたるも、いとをかし。

五月の長雨のころ、上の御局の小戸(こと)の簾(す)に、斉信(ただのぶ)の中将の寄り居たまへりし香は、まことにをかしうもありしかな。そのものの香ともおぼえず、おほかた雨にもしめりて艶なるけしきの、珍しげなきことなれど、いかでか言はではあらむ。またの日まで御簾にしみかへりたりしを、若き人などの、世に知らず思へる、ことわりなりや。

ことにきらきらしからぬ男の、高き短きあまた連れ立ちたるよりも、すこし乗り馴らしたる車のいとつややかなるに、牛飼童(うしかいわらわ)、なりいとつきづきしうて、牛のいたうはやりたるを、童はおくるるやうに綱引かれてやる。

細(ほそ)やかなる男の、末濃(すそご)だちたる袴、二藍(ふたあい)かなにぞ、かみはいかにもいかにも、掻練(かいねり)、山吹など着たるが、沓(くつ)のいとつややかなる、筒(どう)のもと近う走りたるは、なかなか心にくく見ゆ。

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[現代語訳]

192段(終わり)

宮中の局(つぼね)などに、打ち解けて馴れ馴れしくできない恋人がいるので、こちらの火は消しているが、脇にある火の光が、物の上などから差し込んでいるので、さすがに部屋の中の様子はほのかに見えるのだが、丈の低い几帳を引き寄せて、昼間は差し向かいになることはない人なので、几帳の所で横になってうつむいているが、その髪の質が良いか悪いかは隠しきれないようだ。

直衣や指貫などは、几帳に掛けてある。六位の蔵人の青色の衣も似合うだろう。緑そう(ろうそう)になると、寝床の下のほうに丸めてあり、明け方に探し当てることができず、戸惑うことになるのだろう。

夏も冬も、几帳の片方に着物を打ちかけて人が寝ているのを、部屋の奥の方からそっと覗いたのも、とても情趣がある。

五月の長雨の頃、上の御局の小戸(こと)の簾に、斉信(ただのぶ)の中将が寄りかかっていた香りは、本当に素晴らしかったものだな。何の香りかは分からず、概ね雨に湿って香りが際立っている様子であり、それは珍しいことでもないけれど、どうして書かずにいられるだろうか。翌日まで御簾に香りが移っていたのを、若い女房たちが、世に二つとない良い香りだと思っていたのも、当然のことである。

特別に輝かしいわけではない男で、背の高いのや低いのを大勢引き連れた者よりも、少し乗り馴れた車でとてもつやが良いものに、牛飼童が、身なりがとてもきっちりとしていて、牛の勢いがとても良いのを、牛飼童は牛に遅れるようにして綱に引っ張られている(そちらのほうが奥ゆかしいものである。)

細身の従者が、末濃(すそご)のような袴で、二藍色か何かを履いて、上着はどんなものでも、掻練(かいねり)や山吹など着た者が、つやのいい沓を履いて、車の胴の辺りを走っているのは、なかなか奥ゆかしく見えるものだ。

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