『枕草子』の現代語訳:117

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『五月四日の夕つ方、青き草多くいとうるはしく切りて~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

211段

五月四日の夕つ方、青き草多くいとうるはしく切りて、左右になひて、赤衣(あかぎぬ)着たる男の行くこそ、をかしけれ。

212段

賀茂(かも)へまゐる道に、田植うとて、女の、新しき折敷(おしき)のやうなる物を笠に着ていと多う立ちて歌を歌ふ。折れ伏すやうに、また何ごとするとも見えで後ざまに行く、いかなるにかあらむ、をかしと見ゆるほどに、郭公(ほととぎす)をいとなめう歌ふ聞くにぞ、心うき。「郭公、おれ、かやつよ、おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」と歌ふを聞くも、いかなる人か、「いたくな鳴きそ」とは言ひけむ。仲忠(なかただ)が童生ひ(わらわおい)言ひおとす人と、郭公、鶯(うぐいす)に劣ると言ふ人こそ、いとつらう、にくけれ。

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[現代語訳]

211段

五月四日の夕方、青い草をたくさんきちんと切りそろえて、左右の肩に担いだ、赤い狩衣を着た男が行くのは、趣きがある。

212段

賀茂神社へお参りする道で、田を植えるといって、女たちが新しい折敷(薄い板で作ったお盆)のような物を笠にかぶって、大勢で立って歌を歌っている。折れ伏すように、また何かをするとも見えないで後ろに動いていく、どうしたのであろうか、面白いと思って見ていると、郭公(ほととぎす)のことをとても軽んじて歌うのを聞いて、これは残念であった。「ほととぎす、くそ、あいつめ、お前が楽しく鳴いて、俺が田を植えているなんて」と歌うのを聞いても、(昔の歌人であっても)いったいどんな人が、「そんなに鳴くな」などと言っただろうか。仲忠の生い立ちをけなす人と、ほととぎすが鶯(うぐいす)に劣るという人は、本当につらくて、憎たらしい。

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[古文・原文]

213段

八月つごもり、太秦(うずまさ)に詣づ(もうず)とて、見れば、穂に出でたる田を人いと多く見騒ぐは、稲刈るなりけり。早苗取りしかいつの間に、まことに先つ(さいつ)ころ賀茂へ詣づとて見しが、あはれにもなりにけるかな。これは、男どもの、いと赤き稲の、本ぞ青きを持たりて、刈る。なににかあらむして、本を切るさまぞ、やすげに、せまほしげに見ゆるや。いかで、さすらむ、穂をうち敷きて並みをるも、をかし。庵(いお)のさまなど。

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[現代語訳]

213段

八月の末日、太秦(うずまさ)にお参りするといって、見ると、穂が実った田を、人がたくさん見て騒ぐのは、稲を刈るからである。「早苗取りしかいつの間に」と古歌にも詠まれているように、本当についちょっと前に賀茂にお参りする途中で、春の田植えを見たのが、もう秋の収穫の季節にまでなってしまったのだなとしみじみと感じる。稲刈りは、男たちが、真っ赤になった稲の根元のほうの青い所を持って、刈り取る。何だか分からず、根元を切る様子は、簡単そうで、自分でやってみたいように見えるものだ。どうして、そのようにするのだろうか、刈った穂を地面に敷いてその上に並んで座っているのも、風情がある。仮小屋の様子なども面白い。

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