優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。
小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。 このウェブページでは、『僧正遍昭の天つ風〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。
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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)
[和歌・読み方・現代語訳]
天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ
僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
あまつかぜ くものかよいじ ふきとじよ おとめのすがた しばしとどめん
空を吹き渡る風よ、天女たちが帰っていく雲の中の通り道を塞いでくれ、美しい乙女(天女)の姿をまだしばらく見続けていたいのだ。
[解説・注釈]
僧正遍照(僧正遍昭,816−890)は俗名を良岑宗貞(よしみねのむねさだ)といい、六歌仙・三十六歌仙の一人に数え上げられている人物で、桓武天皇の孫の系譜に当たるとされている。僧侶の遍昭は仁明天皇にお仕えして『左近衛少将・蔵人頭』という殿上人の官職を拝命していたが、仁明天皇の崩御によって出家した。
この和歌は、大嘗祭・新嘗祭の後に開催される豊明節会(とよあかりのせちえ)に参加する『五節の舞姫(ごせちのまいひめ)』を美しい天女になぞらえて詠った歌である。五節の舞姫には公卿・国司など身分の高い貴族の娘(少女)が任命される慣習があり、僧正遍昭はこの歌で舞姫たちが退出する通路を、天女が天界と地上を行き来する時に使う『雲の通い路』に見立てているのである。
天皇がいらっしゃる宮中を天界に見立てたような機知の効いた華やかな歌であるが、五節の舞の伝説的な起源は、吉野宮で琴を奏でていた天武天皇の元に天女たちが舞い降りてきたというエピソードにあるという。天武天皇が関係したこの伝説的な出来事にちなんで、『乙女ども 乙女さびすも 唐玉を袂にまきて 乙女さびすも』という歌が残されている。