ウィルヘルム・フリース(Wilhelm Fliess, 1858-1928)

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ウィルヘルム・フリースの生涯と理論

ウィルヘルム・フリース(Wilhelm Fliess, 1858-1928)は、ドイツのベルリンで開業していた耳鼻咽喉科・外科の医師で、S.フロイトより2歳年下の『フロイトの親友』として有名な人物である。フロイトとウィルヘルム・フリースは、『フロイトの自己分析・精神分析の理論・クライエントの悩み』に関する多数の手紙のやり取りをしており、フロイトにとってのフリースは何でも気兼ねなく相談でき意見を聞くことのできる親友であると同時に精神分析家(カウンセラー)のような存在であった。

ウィルヘルム・フリース自身の学問上の功績としては、1897年に発表した『生物学から見た鼻と女性性器の関係』がある。この論文の中でフリースは『身体(Physical)・感情(Emotional,Sensitivity)・知性(Intellectual)』には生理学的な3種類の波(定期的なリズム)があるという『バイオリズム仮説の原型』を提示している。W.フリースは科学者としての思考力や生物学の広範な知識、医師・人間としての誠実さに優れていた人物として評価されており、耳鼻咽喉科の専門医としてのキャリアを積みながらフロイトとの親交を深めていった。

W.フリースは医師・科学者としても一人の人間としても、知性と良識に秀でた魅力的な人物であり、“自分に対する自信”と“他人に対する温かみ”によって他人を魅了して引き付ける『磁石のような人物』という渾名で呼ばれることもあったという。フリースは『耳鼻咽喉科の知識・経験』と『精神分析的な着想・仮説』を結びつけて思考する独特なセンスを持っており、循環器・呼吸器・消化器・筋肉・生殖器などに機能障害が現れる『神経衰弱』の原因が、『鼻粘膜起源(鼻粘膜炎症)の鼻腔反射神経症』にあると考えたりもした。

フリースはこの鼻粘膜炎症に起源があるとする鼻腔反射神経症の治療を、『生殖器官』と相関する『鼻粘膜の特殊な部位』に対して行ったが、その治療法は感覚を麻痺させるコカインを使用するものであった。コカインによる神経症の治療のアイデアは、一時期のS.フロイトの精神分析の治療法にも影響を与えて、フロイトは真剣に『神経症の薬物治療(感覚麻痺による精神状態の改善)の可能性』を模索したりもした。

人間の心身・感情・気分には一定の周期的リズムがあるとする『バイオリズム仮説』は、女性の月経(生理)の周期から類推された仮説であるが、フリースは生命現象全般には『28日周期』『23日周期』の二つがあり、その組み合わせで人間が健康になるか病気になるかが決まるとした。28日周期は『女性的成分の周期』、23日周期は『男性的成分の周期』であるなどと主張して、生命現象はこの女性的成分と男性的成分の二元論的な要素のバランスで決まるという『両性説』を展開したりもした。

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ジークムント・フロイトとウィルヘルム・フリースの深い友情と友人関係の破局

ウィルヘルム・フリースは1887年の秋に、大学院の研究目的でオーストリアのウィーンを訪問した際に、大学で神経学の講義をしていたS.フロイトと知り合って意気投合することになり、文通や交遊関係がスタートした。S.フロイトとW.フリースの友情は次第に深まり、頻繁にウィーンやベルリンで待ち合わせをして意見交換の会合を持つようになり、時には数日間の旅行を共にするほどの親友になっていった。

W.フリースがフロイトの精神分析の着想を賞賛し、S.フロイトがフリースの科学的な才能を評価するといった互恵的な友人関係は長く続き、フロイトはフリースを『生物学のケプラー』と呼ぶほどに高く評価していて、フリースからの肯定・同意が『飢え・渇き・孤独の癒し』や『新しいアイデアの獲得』を促進してくれるのだと言っていた。フリースを過度に理想化していたフロイトにとって、フリースからの賛辞や承認はまるで『神々の食物・神酒』とでもいうような神秘的な賦活効果をもたらすものだったという。

S.フロイトが自らの精神分析を創始しようとして神経症や孤独感、自信の無さに悩んでいる時に、W.フリースはフロイトの精神分析のアイデアや研究の進捗を採点してくれる『善意の判断者』として機能しており、精神的な孤立感や不安感を癒してくれる『最高の相談相手(良き理解者)』でもあったのである。ウィルヘルム・フリースは自分自身が精神分析家としての道を歩むことは無かったが、『精神分析を確立する以前のフロイト』に的確な助言や効果的な批評を多くしており、潜在的には精神分析家としての高い適性とセンスを持った人物だったと推測されている。

『フリースとの蜜月関係』は予想以上に長く続いたが、権威主義で頑固なS.フロイトが他の有能な弟子の多くと決別して絶縁していったように、フリースとも別れの時がやってきた。1900年の夏、アヒェンゼーで会合の機会を持ったフロイトとフリースは、フロイトがフリースの『周期説(バイオリズム仮説)』を非科学的な推論だと批判し、フリースがフロイトの『精神分析』を適当な読心術に過ぎないと批判したことで、激しい口喧嘩に発展して訣別することになったという。

譲歩を知らない短気なS.フロイトはフリースと絶交するや否や、それまで送られてきていた『フリースからの膨大な手紙』をすぐに焼却処分してしまい、初期のフロイトの思想や実体験を知るための貴重な歴史的資料が永遠に失われてしまうこととなった。ウィルヘルム・フリースのほうは『フロイトからの膨大な手紙』を大切に保存しており、1928年のフリースの死後に妻がそのフロイトの手紙を書店に売却した。フリースに宛てたフロイトの手紙を入手したアンナ・フロイトE.クリスらは、その内容を詳しく検証して初期のフロイトの研究や思想を辿る『精神分析の起源(1950年)』を刊行している。

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