中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。
『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 淮陰侯列伝 第三十二』の4について現代語訳を紹介する。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 淮陰侯列伝 第三十二』のエピソードの現代語訳:4]
武渉(ぶしょう)が去った後、斉人のカイ通(かいとう)は天下がどちらに傾くか韓信にかかっていることを知り、奇策を出して感動させようと思い、観相(人相判断)が得意だといって韓信に言った。「私はかつて観相(かんそう)の術を学んだことがあります。」 韓信は言った。「先生はどのようにして人の相を見るのか?」 答えて言った。「貴賎は骨相にあり、喜憂は容色にあり、成敗は決断にあります。これらを総合して見れば、万に一つも間違いはありません。」 韓信は言った。「よろしい。先生は私の相をどのようなものとして見るのか?」
答えて言った。「しばらく、お人払いをお願いします。」 韓信は言った。「もう左右の者は立ち去ったぞ。」 カイ通は言った。「あなたのお顔を拝見すると、封侯に過ぎない感じで、それも危うくて安定していません。しかし、背中を拝見すると、とても高貴で言葉では言い表せないほどです。」 韓信は言った。「どういう意味なのか?」
カイ通は言った。「天下が乱れ始めた当初、俊雄・豪傑が王を称して一呼すると、天下の士は雲のように合い、霧のように集まり、魚の鱗のように混雑し、飛び火のように素早く至り、風のように巻き起こりました。その当時にあっては、憂患は秦を亡ぼすことだけでした。今、楚・漢が分かれて争い、天下の罪無き人にその肝胆を地に塗れさせ、父子で骸骨を戦野にさらさせ、それらは数え切れないほどです。楚人(項羽)は彭城に起こり、転戦して逃げる敵を追い、ケイ陽に達し、勝利に乗じて各地を席巻し、その威は天下を震撼させました。
しかしその軍は京・索の間で困苦に陥り、西山に迫りながら進めない状況が、三年も続いています。漢王は数十万の衆兵を率いて、鞏(きょう)・洛(らく)の間で防ぎ、山河の険しさを頼んでいながら、一日に数戦しても尺寸の功なく、挫折・敗北しても救援してくれるものもなく、ケイ陽に敗れ成皋(せいこう)に傷ついて、遂に宛・葉の間で敗走しました。これは謂わば、智者(漢王)も勇者(項王)も共に苦しんでいるということです。
そもそも鋭気は険塞(けんさい)に防がれ、糧食は内府(くら)で尽き果てて、人民は疲弊の極みに達して怨み、あちこち揺れ動いて落ち着きません。私が考えるところでは、この形勢では天下の賢聖でなければとても天下の禍(わざわい)を終わらせることはできません。今、漢・楚二王の生命はあなたにかかっています。あなたが漢のためにすれば漢が勝ち、あなたが楚のためにすれば楚が勝つでしょう。私は腹心を開き、肝胆を打ち明けて、愚計を述べさせて頂きたいと思いますが、恐らくあなたはその計を用いないでしょう。本当に良く私の計を聴き入れてくだされば、二王のどちらにも加担せずそのまま両立させ、天下を三分して、あなたも加えて鼎(かなえ)の足のように三人で割拠するほうが良いのです。それによって勢い先に戦争に動き出すものは無くなるでしょう。
そもそもあなたほどの賢聖に加えて、武装兵を保有し、強大な斉に依拠して燕・趙を従え、交戦しない地域に進出して漢・楚の後方を制し、民の希望するところに従って西方に対し、人民の命のために漢・楚の戦争をやめさせれば、天下は上げて風のように走り寄り、響のように応じてくるでしょう。誰かあなたの命令を聴かない者などあるでしょうか。こうなれば大国を割き強国を弱めて、諸侯を立ててください。諸侯が立てば、天下は服属・聴従して徳を斉に帰するでしょう。斉の旧領のことを考えて、膠(こう)・泗(し)の地を所有し、諸侯を徳で懐かせて、宮中で手を拱いて(こまねいて)謙譲の精神で振る舞えば、天下の君主は誘い合わせて、斉に入朝することでしょう。天が与えてくれるのに受け取らなければ、かえって天の咎(とが)を受け、好機が到来したのに行動しなければ、かえって殃(わざわい)を受けるということになります。どうか熟慮されてください。」
韓信は言った。「漢王の私に対する待遇は、非常に厚いものである。私を自身の車に乗せ、私に自身の衣服を着させ、自身の食事を私に提供してくださるほどである。私が聞くところでは、『人の車に乗る者はその人の患いを乗せ、人の衣服を着る者はその人の憂いを懐き、人の食事を食べる者はその人の大事に死ぬ』ということである。私がどうして利益を志向して義に背くことができるだろうか。」
カイ生(かいせい)は言った。「あなたはご自分で漢王と親しいと思い込んでいて、万世の業を建てようと望んでおられますが、私は密かにそれは誤りだと考えています。はじめ常山王(張耳)と成安君(陳余)が無位無官の民であった時、お互いに刎頸の交わりをしていましたが、後に張黶(ちょうえん)、陳沢(ちんたく)の問題で、争って怨み合うまでになりました。常山王は項王に背いて、項(うなじ)を抱え頭を垂れ、逃げ出して漢王に帰属しました。漢王はその兵を借りて東下し、成安君をテイ水の南で殺しました。成安君の頭と足はバラバラにされて、遂に天下の笑いものになりました。常山王と成安君の二人の交際は、天下でこの上がないと思われるほど親しいものでした。
しかし遂に擒(とりこ)にし合うようになったのは、どうしてでしょうか?患いは多欲より生じて、人心は測りがたいものだからです。今、あなたが忠信を行って漢王と交際しようと思われていても、常山王と成安君の二人よりも強固なものになり得ないことは必定です。さらにあなたと漢王との争いの原因になりそうなことは、張黶と陳沢の問題よりも多くて大きいのです。だから私は、あなたが漢王は絶対に自分を危うくしないと思い込まれていることは、誤りであると申し上げているのです。
また大夫種(たいふしょう)と范蠡(はんれい)は滅亡しかけていた越を存続させ、越王勾践(えつおうこうせん)を覇者とし、功を立て名を成しましたが、その身は死んでしまいました。野獣が尽き果ててしまえば、猟犬は不要になって烹殺されてしまうのです。そもそも交友という部分でいえば、あなたと漢王との関係は、張耳と成安君との関係にも及ばないのです。忠信という部分でいえば、大夫種・范蠡が勾践に尽くしたほどのものでもありません。この両者のことを参考にすべきであり、ご熟慮ください。
かつまた私は、『勇武才略がその主人を恐れさせるほどの者はその身が危うく、功が天下を蓋う者は賞を与えられない』と聞いています。私があなたの功績と勇武について語らせてもらいましょう。あなたは西河を渡り、魏王を捕虜にし、夏説をとりこにし、兵を率いて井ケイ(せいけい)を下り、成安君を誅殺し、趙を従え、燕を脅し、斉を定め、南の楚軍20万を挫いて竜且を殺し、西に向かって漢王に報告されました。これは『功績は天下に二つとないもので、勇武才略は不世出のものである』というべきものです。今、あなたが主を恐れさせるほどの威を戴き、賞せられないほどの功績を持って楚に帰属しましても、楚の人は信用いたしません。漢に帰属しても、漢の人は震えて恐れるでしょう。
あなたはこれほどの威・功績を持って、どこに帰属しようと言われるのですか?そもそも、人臣の位にありながら主を恐れさせる威があり、名声が天下に高いという勢いがあるのです。密かにあなたのために危ぶんでいるところなのです。」
韓信は謝辞を述べて言った。「先生は暫く休まれてください、私もこのことについて考えてみます。」
数日後、カイ通はまた説いて言った。「そもそも、人の言葉を聴き入れるか否かは、事の成敗の徴候で、計の良し悪しは事の成敗を分ける機会なのです。聴き入れ方を過って、計略の妥当性が失われていて、それで久しく安泰ということは有り得ません。よく聴き分けて先後を失わない者は、言論で混乱させることはできません。計略が本末を失わない者は、巧辞をもって紛糾させることはできないのです。そもそも卑賎な職に従う者は、万乗の君としての権威を失い、微細な俸禄にしがみつく者は、卿相の位につく資格を欠いてしまいます。
だから知は事を決する力であり、疑って決断しないのは事の障害であります。些細な小計をつまびらかにすることにこだわれば、天下の大局を忘れてしまいます。智が本当に優れていてよく知っていても、敢えて断行しなければ、百事の禍(わざわい)ということになります。
ですから、『猛虎もぐずぐず猶予していては、蜂・サソリが刺す害にも及ばない。騏驥(きき)も足踏みして進まなければ、駑馬(どば)がゆっくりと歩くのにも及ばない。孟賁(もうほん,古代の勇者)も狐疑していては、凡庸な人が決行するのに及ばない。舜・禹の智があっても口をつぐんで何も言わなければ、唖(おし)・聾(ろう)が手真似で語るのにも及ばない。』と言われているのです。これはよく実行することの貴さを言ったものなのです。そもそも功は成りがたくて敗れやすく、時は得がたくて失いやすいのです。あぁ、時機、時機というものは再びはやって来ないのです。どうかご詳察ください。」
韓信はなお躊躇って漢に背くのに忍びなかった、また功績が多いので、漢もわが斉を奪うことはあるまいと思って、遂にカイ通の提案を断った。カイ通は自分の提案が聴き入れられなかったので、狂人を装って巫(ぎ)になった。
漢王は固陵(こりょう,河南省)で苦戦に陥ると、張良の計を採用して斉王信を召喚した。信は遂に兵を率いて垓下(がいか,安徽省)で漢王と会した。項羽が破れてしまうと、高祖(劉邦)は襲って斉王の軍を奪ってしまった。漢の五年(前202年)正月、斉王信を移して楚王とし、下ヒ(かひ,江蘇省)に都させた。
信は楚に到着すると、かつて食事の世話をしてくれた綿漂し(めんさらし)の老婆を召して、千金を与えた。また下郷の南昌(なんしょう)の亭長には、百銭を賜うて言った。「そなたは小人である、恩徳を施しながら最後までやり遂げなかった。」 そして自分を侮辱した当時の若者で、その股の下をくぐらせた者を召して、楚の中尉(国都警備の長官)に任じて、諸将相に告げた。「この者は壮士である。私を侮辱した時、私はこの者を殺せなかったわけではないが、殺しても別に名誉にもならないので、忍耐して今の功を成し遂げたのである。」
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