『史記 韓信・盧綰列伝 第三十三』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 韓信・盧綰列伝 第三十三』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 韓信・盧綰列伝 第三十三』のエピソードの現代語訳:2]

漢の五年(前202年)の冬、高祖は項籍を破ると、盧綰(ろわん)を別働隊の将軍に任じた。盧綰は劉賈(りゅうか)と共に臨江王共尉(りんこうおう・きょうい)を撃ってこれを破り、七月に帰還した。それから高祖に従って燕王臧荼(えんおう・ぞうと)を撃った。臧荼は降服した。高祖が天下を平定した時、諸侯のうち劉氏以外で王位に就いた者が七人いた。高祖は盧綰も王にしたいと思ったが、群臣が不満を抱くのではないかと恐れてやめておいた。

臧荼を捕虜にするに及んで、詔を諸将相・列侯に下して、群臣のうちで功ある者を択んで燕王に推薦させた。群臣は主上が盧綰を王にしたいと望んでいるのを知っていたので、みんなは言った。「太尉の長安侯盧綰は常に陛下に従って天下を平定し、功が最も多いので、燕王とすべきでしょう。」 高祖は詔してこれを許した。漢の五年の八月、盧綰を立てて燕王とした。諸侯王のうちで高祖の寵愛を得た点では、燕王に及ぶものはなかった。

漢の十一年(前196年)の秋、陳キ(ちんき)が代の地で反いた(そむいた)。高祖は邯鄲(かんたん)に赴いてキの軍を撃った。燕王盧綰もその東北を撃った。この時、陳キは王黄らに命じて、匈奴に救援を求めさせた。燕王綰もその臣の張勝(ちょうしょう)を使者として匈奴に送り、陳キらの軍は破れたと言わせようとした。張勝は匈奴の地に到着し、元の燕王臧荼(ぞうと)の子の衍(えん)が亡命して匈奴の地にいたので、張勝に会ってから言った。

「あなたが燕で重んじられるのは、匈奴の事情に習熟しているからです。燕が久しく存続しているのは、諸侯がしばしば反き(そむき)、戦争が続いて決着がつかないからです。しかし、今、あなたは燕のために急いで陳キらを滅ぼそうとしておられますが、陳キらが完全に滅びてしまえば、次は燕の番になるでしょう。あなた達もすぐに捕虜にされるでしょう。あなたは燕が暫く陳キを攻める手を緩めて匈奴と和親するように、どうして燕王に進言されないのですか。事が長引けば、燕王はそれだけ長く燕で王としていられるでしょう。もし漢に急変でも起これば、それで燕国は安泰となるでしょう。」

張勝はその通りだと思い、ひそかに計って匈奴らに陳キを助けさせて燕を撃たせた。燕王綰は張勝が匈奴と結んで謀反したのではないかと疑い、上書して張勝を一族皆殺しにしたいと請願した。張勝が帰ってきて、彼が取った行動の理由を詳しく説明した。燕王は事情を悟って、他の者の罪を論じ、勝の家属を許し、匈奴に対する間諜ができるようにした。そしてひそかに范斉(はんせい)を陳キの元に送り、陳キが久しく戦争を続けて、なかなか勝敗が決することのないようにした。

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漢の十二年(前195年)、東の黥布(げいふ)を撃った。陳キはずっと将兵を率いて代にいたが、漢は樊カイ(はんかい)に命じてこれを撃たせた。樊カイはキを斬った。キの副将は降服して、燕王綰が范斉に命じて計謀を巡らし、陳キと通じていたと告白した。高祖は使者を送って盧綰を召喚させようとしたが、盧綰は病気と称して応じなかった。すると主上は辟陽侯審食其(へきようこう・しんいき)・御史大夫趙堯(ぎょしだいふ・ちょうぎょう)を使者として燕王綰を迎えさせ、更に燕王の左右の者を調べさせた。盧綰はいよいよ恐れて閑居して匿れ(かくれ)、その寵臣に言った。

「劉氏以外で王位にあるのは、ただ私と長沙王だけである。去年の春、漢は淮陰侯 (わいいんこう,韓信)を族滅し、夏に彭越(ほうえつ)を誅殺したが、これらはみな呂后の計である。今、主上は病気で、政事を呂后に任せている。呂后は(我が子を重視する)婦人なので、もっぱら因縁をつけて異姓の王や大功臣を誅滅しようとしているのだろう。」 こうして遂に病気を称して行かなかった。その左右の者もみな逃げ匿れた(かくれた)。盧綰が語った言葉は大いに世間に泄れて(もれて)、辟陽侯(へきようこう)もこれを聞いて、帰ってから詳しく主上に報告した。主上はますます怒った。また匈奴の降服者を捕まえると、張勝が亡命して匈奴の地にいるが、実は燕の使者だということですと言うので、主上は「盧綰は果たして反いた(そむいた)のだ。」と言った。

樊カイに命じて燕を撃たせた。燕王盧綰はその宮人・家属・騎兵数千をことごとく率いて、長城の下にいて様子を伺い、主上の病気が癒えたら自ら入朝して謝罪したいと考えていた。しかし四月に高祖が崩御したので、盧綰は遂に人々を率いて匈奴の地に逃げた。匈奴は盧綰を東胡の盧王(とうこのろおう)としたが、綰は蛮夷(ばんい)に侵奪されて、常に漢に復帰したいと思っていた。だが一年余りが経って、匈奴の中で死んでしまった。

高后(呂后)の時代に、盧綰の妻子は匈奴から逃げて漢に降った。たまたま高后は病気でお会いすることができず、都にある燕の邸に留まった。高后も酒宴の席を設けてこれらを引見したいと思ったが、その内に崩じてしまったので、遂に会うことはなかった。また盧綰の妻も病死した。孝景帝(こうけいてい)の中元の六年(前144年)、盧綰の孫の他之(たし)が東胡王として漢に降ったが、漢はこれを封じて亜谷侯(あこくこう)とした。

陳キは宛句(えんく,山東省)の人である。彼がはじめどのようにして高祖に従うようになったのかは分からない。高祖の七年(前200年)の冬、韓王信が反いて匈奴の地に入ると、主上は平城まで赴き、帰還すると陳キを封じて列侯とした。陳キは代の相国だったので、将軍に任命して代の辺境の兵を統監させ、辺境の兵はみなキに服属した。

陳キはかつて休暇を請うて帰郷し、趙を通過したことがあるが、趙の宰相・周昌(しゅうしょう)が、キの賓客として随従する者の車が千余乗もあり、邯鄲の旅館がすべて満員になったこと、キの賓客に対する態度が庶民の交際のように気軽で親しく、いつも賓客の下手に出ていることを見て取った。キが代に帰還すると、周昌はただちに入朝して謁見を求めた。周昌は主上に会って言った。陳キの賓客は非常に盛んであり、このまま数年の間、キが兵を外でほしいままにしていれば、恐らく返事が起こるでしょうと。

主上は人を使わして、陳キの代に居住している賓客の財物や不法の事件を、何度も繰り返して調査させたが、その多くは陳キに関係していた。陳キは恐れて、賓客を王黄・曼丘臣(おうこう・まんきゅうしん)の所に送って内通させた。高祖の十年(前197年)の七月、太上皇(高祖の父)が崩じると、使者を送ってキを召喚した。キは重病と称して応じなかった。九月、遂に王黄らと結んで反き(そむき)、自立して代王となり、趙・代の地を脅かして侵略した。

主上はこれを聞いて、ただちに趙・代の官吏や人民で、陳キに脅されて身を誤った者をすべて許した。主上自ら赴いて邯鄲に至り、喜んでいった。「陳キは南の章水に依拠せず、また北の邯鄲も守っていない。無能であることが分かるというものだ。」 趙の宰相・周章が常山郡(河北省)の郡守・郡尉を斬罪にしたいと言ってきた。「常山郡には二十五城邑がありますが、陳キがそむいてから、その二十城邑を失ったのです。」 主上は問うた。「郡守・郡尉は反いたのか?」 答えて言った。「反いてはいません。」 主上は言った。「それでは力が足りなかっただけである。」 こうして二人を赦して、再び常山郡の郡守・郡尉にした。

主上が周昌に問うて言った。「趙にも壮士で将軍に任ずるのにふさわしい者がいるか?」 答えて言った。「四人います。」 その四人が謁見すると、主上は侮り罵って言った。「豎子(じゅし、小僧)、将軍として務まるか?」 四人は慚じいって(はじいって)平伏した。主上はそれぞれ千戸の邑に封じ、将軍に任じた。左右の者が諌めて言った。「陛下に従って蜀・漢に入ったり楚を伐ったりした者に対しても、その論功がまだ十分に行われていません。それなのに今どのような功があってこの四人に千戸も封ぜられるのですか?」

主上は言った。「お前らの知るところではない。陳キがそむいて、今や邯鄲以北はすべてキが所有している。私が檄を飛ばして天下に兵を徴しても、まだやってきた者はいないのだ。今はただ邯鄲の城中の兵がいるだけである。どうして四千戸などを惜しんでいられるか。この四人を封じなければ、趙の子弟の忠義を慰めることができないであろう。」 みんなは言った。「分かりました。」 更に主上は言った。「陳キの武将は誰か?」 答えた。「王黄、曼丘臣でみな元は商人です。」 主上は言った。「私もそれは知っている。」 そしてそれぞれに千金の賞金を懸けて、黄臣らを捕えさせようとした。

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十一年(前196年)の冬、漢軍は攻撃して陳キの部将の侯敞(こうしょう)を曲逆(くぐう,河北省)付近で斬り、同じく部将の張春(ちょうしゅん)を聊城(りゅうじょう,山東省)で破り、一万余の首を斬った。太尉の周勃(しゅうぼつ)が攻め込んで、太原・代の地を平定した。十二月、主上自ら東垣(とうえん,河北省)を撃った。東垣は降らず、その兵卒に主上を罵った者がいた。その後に東垣が降ると、以前、主上を罵った兵卒は斬罪に処され、罵らなかった兵卒は黥(いれずみ)の刑に処して、東垣を真定(しんてい)と改名した。王黄・曼丘臣は、その麾下(きか)の者たちが懸賞に応じて生け捕りにして送ってきた、こうして陳キの軍は遂に敗れたのである。

主上は帰還して洛陽に着くと言った。「代は常山(河北省の山)の北に位置しているのに、その代を趙が常山の南から保有しているのは遠すぎるだろう(遠すぎて問題があるだろう)。」 子の恒(こう,後の孝文帝)を立てて代王とし、中都(ちゅうと,山西省)に都を置かせた。代・鴈門(がんもん)の地はすべて代に所属した。高祖の十二年冬、樊カイの軍卒が追撃して陳キを霊丘(れいきゅう,山西省)で斬った。

太史公曰く――韓信・盧綰は、先祖代々、徳を積み善を累ねた余慶で王侯の地位に上ったのではなく、一時の権謀・変事に務めて、詐欺・暴力によって成功したのである。漢王室が初めて定まる時に遭遇したので、領土を割き与えられて、南面して“孤”と称することができたのだ。しかし、内では強大なるが故に疑われ、そのために外に蛮貊(えびす)の援助を頼むことにもなった。それ故、日毎に漢王室から疎まれ、自ら危地に陥ったのである。事が窮まり智恵も尽き果てて、その果てに匈奴に走ったのである。

何と哀しいことではないか。陳キは梁(りょう)の人で、若い頃はしばしば魏の公子・信陵君(しんりょうくん)を称えて慕った。将軍として辺境を守るに及んで、賓客を招いて士人にへりくだり、名声が実力を過ぎてしまい、周昌に疑われてしまった。そこから欠点が次々に明らかになってきて、禍が身に及ぶことを懼れた。邪(よこしま)な人物の進言があり、その進言を受け入れたために遂に無道に陥った。あぁ、悲しきことかな。そもそも計が成熟しているのか未熟なのか、成功するのか失敗するのかということが、人に及ばす影響は深いものである。

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