『史記 樊・麗・滕・灌列伝 第三十五』の現代語訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 樊・麗・滕・灌列伝 第三十五』の3について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 樊・麗・滕・灌列伝 第三十五』のエピソードの現代語訳:3]

孝景帝の前三年(前154年)、 呉・楚・斉・趙が謀反を起こした。主上は麗寄(れいき,正しい漢字は麗におおざと)を将軍に任命して趙城を包囲させたが、寄は十ヶ月しても下せなかった。兪侯欒布(ゆこう・らんぷ)が斉を平定して来てくれたので、ようやく趙城を下して趙を滅ぼした。趙王は自殺して、国は除かれた。孝景帝の中元の二年(前153年)、寄は平原君(孝景帝の王皇后の母)を娶って夫人にしようとした。

孝景帝は怒って、寄を刑吏に下した。寄の罪状が明らかになったので、侯位を剥奪した。孝景帝は麗商(れきしょう)の別の子の堅(けん)を繆侯(ぼくこう)に封じて、麗氏の後を継がせた。繆の靖侯(堅の諡・おくりな)が死んで、その子の康侯遂成(こうこう・すいせい)が立った。遂成が死んで、その子の懐侯世宗(かいこう・せいそう)が立った。世宗が死んで、その子の終根(しゅうこん)が立ち、太常(官名)になったが、法に違反して国は除かれた。

汝陰侯夏侯嬰(じょいんこう・かこうえい)は沛の人である。沛の厩司御(きゅうしぎょ)であったが、使者や賓客を送った帰途には、いつも沛の泗上(しじょう)の駅亭に立ち寄り、終日、高祖と語り合っていたのだった。そして、嬰は試みに県吏として採用されることになったが、やはり高祖と仲が良かった。高祖が戯れて夏侯嬰を傷つけたことがあり、ある人が高祖を告訴した。その時の高祖は亭長(駅亭の長)であり、人を傷つけると重罪に処せられる立場にあったので、嬰を傷つけなかったと訴えて、嬰自身もこれを証言した。しかし後にこの裁判の結果は覆されて、嬰は偽証したことで高祖の罪に連坐し、一年余りも獄舎につながれ、数百回も笞で打たれたが、最後まで白状せずに高祖を助けた。

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高祖が初めてその徒属と共に沛を攻めようとした時、嬰は県の令史(官名)だったが、高祖のために使者の役割をした。高祖が一日で沛を降して沛公になると、嬰に七大夫の爵を賜い、太僕(たいぼく,輿馬を司る官)に任じた。嬰は沛公に従って胡陵(こりょう)を攻め、蕭何(しょうか)と共に泗水の軍監の平を降し、平は胡陵ごと降ったので、沛公は嬰に五大夫の爵を賜うた。また沛公に従って、秦軍を湯(とう)の東に撃ち、済陽(せいよう,河南省)を攻めて、戸雇(こゆう)を降し、李由(りゆう)の軍を雍丘(ようきゅう,河南省)城下に破り、兵車を操って急行し激戦した、それによって執帛(しっぱく)の爵を賜わった。

常に太僕として沛公のために車を御した。沛公に従って章邯(しょうかん)の軍を東阿(とうあ,山東省)の濮陽(ぼくよう)城下で下し、兵車を操って急行・激戦してこれを破り、執珪(しっけい)の爵を賜わった。また常に沛公のために車を御した。沛公に従って趙賁(ちょうほん)の軍を開封に、楊熊(ようゆう)の軍を曲遇(くぐう)に撃ち、嬰は六十八人を捕虜にし、卒八百五十人を降服させ、印一箱を手に入れた。また常に沛公のために車を御した。沛公に従って秦軍を洛陽の東に撃ち、兵車を操って急行・激戦し、爵・封を賜わり、転じて滕公(とうこう)となった。こうしてまた沛公のために車を御し、従って南陽を攻め、藍田(らんでん)・止陽(しよう,陝西省)に戦い、兵車を操って急行・激戦し、覇上に至った。

項羽が到着して秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王とした。漢王は嬰に列侯の爵を賜い、昭平侯(しょうへいこう)と呼んだ。嬰は再び太僕となり、漢王に従って蜀・漢に入った。引き返して、三秦を平定した。漢王に従って項籍(項羽)を撃ち、彭城(ほうじょう)にまで至った。項羽は大いに漢軍を破った。漢王は敗れて利あらず、逃げ去っていった。

その途中で、孝恵・魯元(こうけい・ろげん)の漢王の二子に会ってこれを車に乗せた。漢王が直面している事態は急であり、馬が疲れて敵が後ろに迫っているので、漢王はしきりに二子を蹴って車から捨てようとした。嬰はその度にこれを拾って、最後まで車に乗せて徐行し、二子を抱き抱えたまま馳せ続けた。漢王は怒って十余回も嬰を斬ろうとしたが、遂に敵から脱出することができて、孝恵・魯元を豊(ほう)に送り届けた。

漢王はケイ陽に到着すると、逃散した兵を集めて再び勢力を盛り返し、嬰に食邑として祈陽(きよう)を賜うた。嬰はまた常に漢王のために車を御し、従って項籍を撃ち、追跡して陳に至り、遂に楚を平定して魯に至ったが、食邑として茲氏(じし,山西省)を増封された。

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漢王は立って帝となった。その秋、燕王臧荼(えんおう・ぞうと)が謀反を起こした。嬰は太僕として高帝に従って臧荼を撃った。翌年、高帝に従って陳に至り、楚王韓信(そおう・かんしん)を捕えた。食邑として汝陰(じょいん,安徽省)を更に賜わり、割符を割き与えられて、代々の世襲を許された。太僕として高帝に従って代を撃ち、武泉・雲中(ぶせん・うんちゅう,山西省)に至った。千戸を増封された。そして高帝に従って韓王信に与した匈奴の騎兵隊を晋陽(しんよう)付近で撃ち、大いにこれを破った。

逃げる敵を追って平城(へいじょう,山西省)に至ったが、匈奴に包囲されて七日間味方と連絡ができなかった。高帝が使者を送って手厚く閼氏(あつし)に贈り物をすると、冒頓単于(ぼくとつぜんう)は包囲の一角を開いた。高帝は匈奴の包囲から出ると馳せて去ろうとしたが、嬰は頑固に徐行し、弩(ど)は満を辞して外に向けられ、遂に脱出することができた。高帝は嬰に細陽(さいよう,河南省)の千戸を増封した。

嬰はまた太僕として高帝に従い、匈奴の騎兵隊を句注山(こうちゅうざん,山西省)の北に撃ち、大いにこれを破った。また太僕として匈奴の騎兵隊を平城の南に撃ち、三度敵陣を落として、功績が多かったので、奪った邑の五百戸を賜わった。太僕として陳キ(ちんき)・黥布の軍を撃ち、敵陣を落として敵を撃退したので、千戸を増封された。そして改めて汝陰の六千九百戸を食邑として賜わり、先に食邑とした所は除かれた。

嬰は主上が初めて沛で兵を挙げた時から、常に太僕であり、それは高祖の崩御の時まで続いたが、更に太僕として孝恵帝に仕えた。孝恵帝と高后は、嬰が孝恵・魯元の二人を下邑(かゆう,江蘇省)付近で救ったことを徳であるとして、嬰に北闕(ほっけつ)に近い第一級の邸宅を賜い、「我々に近しいから。」と言って、特別に尊敬されることになった。孝恵帝が崩御すると、嬰は更に太僕として高后に仕えた。高后が崩じて代王(後の孝文帝)が都に入ると、嬰は太僕として東牟侯(とうぼうこう)と共に宮中に入って少帝を廃して、天子の法駕(ほうが,儀式用の車・駕籠)を用意して代王を都にある代の邸宅から迎え入れ、大臣と共に擁立して孝文皇帝とした。

また太僕となり、八年後に死んだ。文侯と諡された。その子の夷侯竈(いこう・そう)が立って、七年で死んだ。その子の共侯賜(きょうこう・し)が立って、三十一年で死んだ。その子の侯頗(こうは)は平陽公主(へいようこうしゅ,孝景帝の皇女)と結婚したが、立って十九年、元鼎(げんてい)二年(前115年)に、父の妻妾と姦通した罪に坐して自殺し、国も除かれた。

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