『史記 麗生・陸賈列伝 第三十七』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 麗生・陸賈列伝 第三十七』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 麗生・陸賈列伝 第三十七』のエピソードの現代語訳:1]

その計画に従って敖倉(ごうそう)を再び守り、麗生(れきせい)を使者として斉王(田広)に説かせた。麗生は斉王に言った。「王は天下の帰するところをご存知ですか?」 王は答えた。「知らない」 麗生は更に言った。「王が天下の帰する所をご存知であれば、斉国は安定して存続できるでしょう。もし天下の帰する所をご存知でなければ、斉国を安全に保つことはできないでしょう。」 斉王は言った。「天下はどこに帰するのか?」

麗生は言った。「漢に帰するでしょう。」 王は言った。「先生はどんな理由でそう言われるのか?」 麗生は言った。「漢王(劉邦)は項王(項羽)と力を合わせて、西の秦を撃ちましたが、その際に先に咸陽(秦の首都・陝西省)に入城した者が、その地で王となることを約束しました。そして漢王がまず咸陽に入城したのですが、項王は約束に背いてその地を与えず、漢王は漢中の地の王にしました。項王は義帝を追放して殺しました。

漢王はこれを聞くと、蜀・漢の兵を起こして三秦を撃ち、函谷関(かんこくかん)を出て項王が義帝を殺した罪を責めました。こうして漢王は天下の兵をまとめて、諸侯の後裔(こうえい)を立てたのです。城邑(じょうゆう)を下せば、軍功のある将軍を侯に取り立て、財貨を手に入れれば士卒に分け与えて、天下の人々と利を同じくするので、英雄・豪傑・賢才の士はみんな漢王のために働くことを楽しみました。諸侯の兵は四方から集まり、蜀・漢の穀物は船を並べて下ってきました。

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それに対して、項王には約束に背いた悪名があり、義帝を殺した謀反の負い目があります。更に人の功については記憶することがなく、人の罪については忘れることがないので、その将士は戦いに勝っても賞賜(しょうし)を得られず、城邑を抜いても封ぜられず、項氏一族で無ければ要職にはつけません。また項王は吝嗇(りんしょく)で、人を封ずるために侯の印章を刻んでも、それを実際に授けることができませんでした。

城邑を攻めて財貨を得て、いくら蓄積しても人に褒賞として与えることができなかったのです。そのため、天下はすべて畔き(そむき)、賢才の士は怨み、誰も項王のために役立とうとしませんでした。それ故、天下の士が漢王のもとに帰するのは、座していても予測できることです。漢王は蜀・漢の兵を発して、三秦を平定し、西河の外をわたり、上党(山西省)の兵を手中に収め、井ケイ(せいけい・河北省)を下って成安君(陳余)を誅殺し、北魏(魏豹)を破って三十二城邑を抜きましたが、これは蚩尤(しゆう,黄帝時代の伝説的名将)の軍事ともいうべきもので、人の力のよくするところではなく、天与の福と言えるでしょう。

今、漢はすでに敖倉(ごうそう)の穀物を抑え、成皋(せいこう)の険をふさぎ、白馬の津を守り、大行山の阪路(さかみち)を閉じ、蜚狐嶺(ひこれい)の口を塞いでしまいました。天下の諸国のうち、遅れて漢に降伏するものがまず滅びるでしょう。王がいち早く漢王に降伏されれば、斉国の社稷(しゃしょく)は安全に保たれるでしょう。漢に降伏されなければ、王の危急存亡の時がやって来るでしょう。」 田広はその通りだと考えて、すぐに麗生の言葉を聞き入れて、歴城下の守戦の兵備をやめて、麗生と毎日酒にふけった。

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淮陰侯(わいいんこう)は、麗生が車の横木にもたれたまま、言葉だけで斉の七十余城邑を下したと聞くと、ただちに夜に乗じて兵を平原の津(わたし,山東省)から渡らせて斉を襲った。斉王田広は漢軍が来襲したと聞くと、麗生が自分を売ったと思って言った。「お前が漢軍の侵入を止めたら生かしておいてやろう。できなければ、烹殺す(にころす)」

麗生は答えた。「大事を挙げるためには些細なつつしみなど意に介さず、成徳ある者は末節の礼にこだわって謙遜などはしないものだ。私はお前のために、前言を改めることなどはしない」 斉王はついに麗生を烹殺し、兵をまとめて東へ逃走した。

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漢の十二年(紀元前195年)、曲周侯麗商(きょくしゅうこう・れきしょう)は丞相として兵を率い、黥布を撃って軍功があった。高祖は列侯・功臣を挙用して、思いを麗食其(れきいき)に巡らせた。麗食其の子の疥(かい)はしばしば兵を率いて出陣したが、その功はまだ侯に該当しなかった。しかし、高祖はその父の功績を偲んで、疥を高梁侯(こうりょうこう)に封じ、後に更に武遂(ぶすい)を食邑(しょくゆう)として与えた。

嗣ぐ(つぐ)こと三代、元狩元年(武帝の年号)に、武遂侯平(ぶすいこう・へい)は詔(みことのり)だと詐って(いつわって)、衡山王(こうざんおう)から金百斤をだまし取った件に坐し、棄市(死刑にされて市にさらされる刑罰)の判決を受けたが、病死して国を除かれたのである。

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