『史記 張丞相列伝 第三十六』の現代語訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 張丞相列伝 第三十六』の3について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 張丞相列伝 第三十六』のエピソードの現代語訳:3]

漢の興隆から孝文帝に至るまでは二十余年で、ようやく天下が定まってきた頃であり、時の将軍・宰相・公卿はみな元は軍人であった。張蒼(ちょうそう)は計相の頃、音律・暦法を整備して改正した。それによれば、高祖がはじめて霸上(はじょう,陝西省)に到着したのは10月で、秦も元々10月を年始としていたので、この暦法は改めなかった。五行(木・火・土・金・水)の徳の運行を推測して、漢は水徳に当たると判断し、旧来の五行説に従って水に当たる色として黒を重んじた。

十二律の管楽器を吹いて音楽を調え、宮・商・角・徴・羽の五声に当てはめた。軽重大小の比によって律令を制定した。さまざまな手工業者(工匠)の便宜のために、器物の尺寸や重さの基準を定めた。これらは彼が丞相になってから成し遂げられた。それ故、漢朝で音律・暦法について論じる者は、みんな張蒼を基本にした。蒼は元より読書を好み、読まないものはなく、通暁していない分野もなかったが、その中でも特に音律・暦法に通じていたのである。

張蒼は王陵(おうりょう)を徳とした。王陵は安国侯(あんこくこう)であったが、蒼は貴位に上ってからも、常に父につかえるようにして王陵につかえた。王陵の死後、蒼は丞相になったが、休暇の度に、まず陵の夫人の元に参上して食物を献上し、それから家に帰っていた。

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蒼が丞相になってから十余年が経って、魯人(ろひと)の公孫臣(こうそんしん)が次のように上書した。

「漢は五行によれば土徳の時代です。その符験(しるし)としてまさに黄龍が現れるでしょう。」

帝は詔(みことのり)して、その審議を張蒼に命じた。張蒼は非と判断して、これを取り上げなかった。しかしその後、黄龍が成紀(せいき,甘粛省)に現れたので、孝文帝は公孫臣を召して博士とし、土徳の時代に相当する暦法・制度を起草させ、改元してこの年を元年とした。張丞相はこのために自ら卑屈になり、病気を訴えて老衰したと称した。

また蒼はある人を推薦して中候(ちゅうこう)の官位につけていたが、その人物が不正な利益を貪ったので、帝は蒼を責めた。蒼は遂に病気になって、官を免ぜられた。蒼は丞相の職にあること十五年で免ぜられることになった。

孝景帝の前元の五年、蒼は死んだ。文侯と諡(おくりな)された。その子の康侯奉(こうこう・ほう)が代わって立ち、八年後に死んだ。その子の類が代わって侯となったが、八年に諸侯の喪に臨んで哭礼(こくれい)を行い、そのまま朝廷に出仕して謁見したため、不敬罪となって封国は除かれてしまった。

初め、張蒼の父は身長が五尺に満たなかったが、蒼を生むと蒼は身長八尺余りもあり、侯・丞相にまでなった。蒼の子も長身であった。孫の類になると、身長は六尺余り、法に坐して侯の地位も失った。蒼は丞相を免ぜられた後、老衰によって口中に歯がなく、乳を飲んでいた。若い女が、乳母をつとめたのである。蒼の妻妾は数百人を数えたが、一度妊娠した者は二度とは寵愛しなかった。蒼は百余歳で死んだ。

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申屠丞相嘉(しんとじょうしょう・か)は、梁の人である。材官蹶張(さいかんけっちょう,勇猛な壮士がついた武官の官名)として、高帝に従って項籍(こうせき)を撃ち、遷って隊率(たいすい,隊長)になった。高帝に従って黥布(げいふ)の軍を撃ち、都尉(とい)となった。

孝恵帝(こうけいてい)の時代に、淮陽(わいよう,河南省)の郡守となった。孝文帝の元年、元禄高二千石の吏士(りし)で高帝に従って転戦した者を挙げて、ことごとく関内侯(かんだいこう,爵名)とし、二十四人に食邑(しょくゆう)を賜うたが、この時に申屠嘉(しんとか)は五百戸の食邑を賜った。

張蒼が丞相になると、嘉は御史大夫に遷った。張蒼が丞相を免ぜられると、孝文帝は皇后の弟の竇広国(とうこうこく)を丞相にしたいと思って言った。「恐らく天下の人々は、わしを私情で広国を挙用したと思うであろう。」 広国は賢明で徳行もあったので、帝はこの人物を丞相にしたいと思ったのだった。その念願は久しい間続いたが、遂に実現はできなかった。

しかも高帝時代の大臣たちは多くが死んでしまい、他には現実的に適任者がいなかったので、御史大夫の嘉を丞相とし、旧領にそのまま封じて故安侯(こあんこう)とした。

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