『史記 樊・麗・滕・灌列伝 第三十五』の現代語訳:5

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 樊・麗・滕・灌列伝 第三十五』の5について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 樊・麗・滕・灌列伝 第三十五』のエピソードの現代語訳:5]

漢王が立って皇帝になると、灌嬰に食邑(しょくゆう)三千戸を増封した。その年の秋、嬰は車騎将軍(しゃきしょうぐん)として高帝に従い、燕王・臧荼(えんおう・ぞうた)を撃破した。翌年、高帝に従って陳に至り、楚王・韓信を捕えた。帰還すると、割符を割き与えられて、代々の世襲を許され、潁陰(えいいん,河南省)の二千五百戸を食んで(はんで)、潁陰侯(えいいんこう)と号した。

車騎将軍として高帝に従い、謀反した韓王・信を代に撃ち、馬邑(ばゆう,山西省)に至った。詔を受けて別に楼煩(ろうはん)から北の六県を下し、代の左相を斬り、匈奴の騎兵隊を武泉の北に破った。また高帝に従って、韓王・信に味方する匈奴の騎兵隊を晋陽の城下に撃ち、部下の兵卒が白題(はくだい、匈奴の種族)の将一人を斬った。詔を受けて、燕・趙・斉・梁・楚の車騎を併せて率い、匈奴の騎兵隊を沙石(させき)で撃破した。平城に至って匈奴に包囲されたが、高帝に従って引き返し、東垣(とうえん)に軍陣を布いた。

高帝に従って陳キ(ちんき)を撃ち、詔を受けて別に陳キの丞相・侯敞(こうしょう)の軍を曲逆(くぐう、河北省)城下に攻め、これを破った。部下の兵卒が、侯敞および特将の五人を斬った。曲逆・盧奴(ろど)・上曲陽(じょうきょくよう)・安国・安平(あんぺい)を下して、東垣を攻めて下した。

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黥布(げいふ)が謀反を起こすと、嬰は車騎将軍として、まず出撃して布の別将を相(しょう)に攻めてこれを破り、副将と楼煩の将三人を斬った。また進んで、黥布の上柱国(じょうちゅうこく、官名)の軍および大司馬の軍を撃破した。更に進んで、布の別将・肥誅(ひしゅ)を破った。嬰自ら敵の左司馬一人を生け捕りにし、部下の兵卒が敵の少将十人を斬った。逃げる敵を追撃して淮水にまで至り、食邑・二千五百戸を増封された。

黥布が敗れると、高帝は帰還して、改めて嬰に食邑として穎陰(わいいん)の五千戸を賜い、彼が前に食邑としていた所からは除いた。およそ嬰の功績は、高帝に従って二千石の身分の者を二人捕え、別に軍を破ること十六回、城邑を下すことは四十六、国を平定すること一、郡は二、県は五十二、将軍の捕捉は二人、柱国・相国は各一人、二千石の身分の者は十人であった。

嬰は自ら黥布を破って帰還した後、高帝は崩御した。嬰は列侯として孝恵帝(こうけいてい)および呂太后に仕えた。太后が崩ずると、呂禄(りょろく)らは趙王として自ら将軍になり、長安に陣して乱を起こそうとした。斉の哀王はこれを聞くと兵を挙げて西進し、都に入って王になるべからざる者(呂禄ら)を誅滅しようとした。上将軍・呂禄らはこれを聞くと、嬰を大将として派遣し、出向いてこれを撃たせた。

嬰はケイ陽まで至ったが、絳侯(こうこう)らと謀議して、兵をケイ陽に留めて、それとなく斉王に呂氏誅滅のことを知らせたので、斉の兵は止まって前進しなかった。絳侯らが呂氏一族を誅滅してしまうと、斉王は軍を引き払って帰国した。嬰もまた軍陣を引き払ってケイ陽から帰り、絳侯・陳平と共に代王を立てて孝文皇帝(こうぶんこうてい)とした。孝文皇帝はこうして嬰に三千戸を増封し、黄金千斤を賜い、太尉に任じた。

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三年の後、絳侯・周勃(こうこう・しゅうぼつ)は丞相を罷免されて封国に赴き、嬰は丞相となって太尉の官をやめた。この年、匈奴が大いに北地・上郡に侵入してきたので、帝は丞相嬰に命じて、八万五千の兵を率いて出向かせ匈奴を撃たせた。匈奴は去った。済北王(せいほくおう)が謀反を起こしたので、詔して嬰の遠征をやめさせた。

その一年余り後に、嬰は丞相として死んだ。懿侯(いこう)と諡(おくりな)された。その子の平侯阿(へいこうあ)が代わって侯になり、二十八年に死んだ。その子の彊(きょう)が代わって侯になり、十三年後に罪過を犯して侯位が二年間にわたって中絶した。元光三年、天子(皇帝)は灌嬰(かんえい)の孫の賢を封じて臨汝侯(りんじょこう)とし、灌氏を継がせた。その八年後、賢は賄賂を行って罪を犯し、国を除かれた。

太史公曰く――私は豊・沛に行き、生き残っていた老人を訪問し、かつての蕭何(しょうか)・曹参(そうしん)・樊カイ(はんかい)・滕公(とうこう,夏侯嬰)の墓を見学して、彼らの平素の行状を聞いたが、世に伝えられている事とは全く違っていた。彼らがまだ刀を鳴らして犬を屠ったり、絹を売ったりしている時に、どうして自分たちが驥尾(きび)に付してその名を漢の朝廷に垂れ、徳が子孫にまで流れることを知っていただろうか。私は樊他広(はんたこう、樊カイの孫)と交際していたので、高祖の功臣たちが興隆した時の事柄について、樊他広が上のようなことを話してくれたのである。

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