『史記 張丞相列伝 第三十六』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 張丞相列伝 第三十六』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 張丞相列伝 第三十六』のエピソードの現代語訳:2]

その後、戚姫(せきき)の子の如意(にょい)は趙王になった。十歳であった。高祖(劉邦)は自分の死後、如意(如意の趙王としての地位)が完全ではないだろうと憂えた。趙堯(ちょうぎょう)という年少の人物がいて、符璽御史(ふじぎょし,御史大夫の属官)を務めていた。

趙人(ちょうひと)の方与公(ほうよこう,方与県令)が御史大夫の周昌(しゅうしょう)に言った。「あなたの書記官の趙堯は、年は若いのですが奇才があります。どうか優遇してあげて下さい。これはあなたの官位を継ぐ人物です。」 周昌は笑って言った。「堯はまだ若年で、刀筆の吏(とうひつのり,文章を扱う小吏)に過ぎない。どうして私の官位にまで至れるだろうか。」

しばらくして、趙堯は高祖に侍した。高祖は独り心楽しまずに悲歌を口ずさんだが、群臣は高祖がこのように悲しむ理由が分からなかった。趙堯が進みでて問うて言った。「陛下が心楽しまずにいらっしゃるのは、趙王が年少で戚夫人(せきふじん)と呂后(りょこう)が仲違いをしておられるので、陛下が如何に死後に備えられても、趙王がその身の安全をまっとうできないであろうとご心配になられているからではございませんか?」高祖は言った。「その通りだ。わたしはそのことを憂えているのだが、どのようにすれば良いのかが分からないのだ。」

堯が言った。「陛下はただ趙王のために地位が貴くて勢いが強く、呂后、太子、群臣が平素から畏敬して憚っているような人物を宰相にお据えになれば良いだろうと思います。」 高祖は言った。「そうだ。わたしもあれこれ考えてみたが、そうしたいと思う。しかし、群臣の中で誰が宰相に適しているのだろうか?」 堯が言った。「御史大夫の周昌はその人となりが、志操堅固(しそうけんご)で忍耐があり質実・正直でもありますから、呂后、太子および大臣などすべての人々が平素から畏敬して憚っております。昌こそが適任でしょう。」

高祖は言った。「分かった。」 こうして高祖は周昌を召して言った。「わたしは是非とも公を煩わせたいのだが、公はわたしの為にどうか趙王の宰相になってほしい。」 周昌は泣いて言った。「私は兵を挙げられた初めから陛下に従ってきました。それなのに、陛下はどうして中途から私を諸侯の宰相になどされるのでしょうか?」 高祖は言った。「わたしもこれが左遷に当たることを承知しているが、わたしは密かに趙王を憂えているのである。公以外に適任者がいないのだ。公にはやむを得ないこととしてどうか行ってほしい。」 こうして、御史大夫の周昌を移して趙の宰相とした。

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周昌が趙に行って久しい時間が経ってから、高祖は御史大夫の印を手にして、弄びながら言った。「誰を御史大夫にするのが良いだろうか?」 趙堯を熟視してから言った。「堯より適任者はいない。」 遂に、趙堯を御史大夫に任じた。堯はまた先に軍功があって食邑(しょくゆう)を賜っていたが、御史大夫として高祖に従い、陳キを撃った功があったので、江邑侯(こうゆうこう)に封ぜられた。

高祖が崩じると、呂太后は使いを送って趙王を召喚した。趙王の宰相・周昌(しゅうしょう)は、王が病気だと称して行かせなかった。使者が三度往復したが、周昌は頑なに(かたくなに)趙王を送らなかった。高后(こうごう)は思い患って、使者に周昌を召喚させた。周昌が到着して、高后に謁見した。高后は怒って、周昌を罵って言った。「あなたは私が戚氏を恨んでいることを知らないわけではないでしょう。それなのに、どうして趙王を渡さないのですか?」 昌が召された後、高后は使者を送って趙王を召喚した。

趙王は果たしてやって来たが、長安に着いてから一ヶ月余りして、毒薬を飲まされて死んだ。周昌は病気と称して朝廷に出てこず、三年後に死んだ。

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その五年後、高后は御史大夫の江邑侯趙堯(こうゆうこう・ちょうぎょう)が高祖 の在世中に趙王如意のために画策したと聞いて、堯を罪に陥れ、広阿侯任敖(こうあこう・じんごう)を御史大夫に任じた。

任敖は元は沛(はい)の獄の官吏であった。高祖はかつて罪を犯し、捕吏(ほり)を避けて逃亡したことがあった。捕吏は呂后を獄に入れて虐待した。任敖は元々高祖と仲が良かったので、怒って呂后の係の獄吏(ごくり)を撃って傷つけた。高祖が初めて兵を挙げると、敖は客分として従い、後で御史として豊(ほう)を守った。

二年後、高祖は立って漢王となり、東の項籍を撃った。敖は遷って上党(じょうとう,山西省)の郡守となり、陳キが謀反を起こした時に堅く守った。その功によって広阿侯(こうあこう)に封ぜられ、食邑千八百戸を賜った。高后の時代に御史大夫となり、三年で免ぜられた。それから、平陽侯曹チュウ(へいようこう・そうちゅう)が御史大夫となったが、高后が崩じた後、大臣と共に呂禄(りょろく)らを誅滅しなかったので免ぜられた。淮南の宰相張蒼(ちょうそう)が御史大夫となった。

張蒼は絳侯(こうこう)らと共に代王を尊んで立てて、孝文皇帝(こうぶんこうてい)とした。四年、丞相灌嬰(じょうしょう・かんえい)が死んで、張蒼が丞相になった。

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