『史記 劉敬・叔孫通列伝 第三十九』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 劉敬・叔孫通列伝 第三十九』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 劉敬・叔孫通列伝 第三十九』のエピソードの現代語訳:1]

劉敬(りゅうけい、高祖から劉の姓を賜った人物で元の姓は婁・ろう)は斉の人である。漢の五年(前202年)、衛戌兵(えいじゅへい)として隴西(ろうせい、甘粛省)に向かう途中、洛陽を通った。洛陽には高帝(高祖)がいた。婁敬(ろうけい)は、乗っていた免各(ばんかく、二人が引き一人が押す小車)から降りて、羊の皮衣を着たままで、斉の出身である虞将軍(ぐしょうぐん)に会って言った。

「陛下に拝謁して、国家統治の便宜について申し上げたいのです。」

虞将軍が新しい美服を与えようとすると、婁敬は、「私は帛(きぬ)を着ていれば帛を着たままで、褐(かつ、粗末な毛衣)を着ていれば褐を着たままで拝謁します。」と言って、

どうしても衣服を変えようとはしなかった。そこで虞将軍が参内してそのことを申し上げると、高祖は婁敬を召して引見し、食事を賜うた。やがて、婁敬に問うと、婁敬は説いて言った。

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「陛下は落葉に都を置いておられますが、かつての周王室と隆昌を競おうという御意があるのでしょうか?」 陛下は答えた。「その通りである。」

婁敬は言った。「陛下が天下を取られた経緯は、周王室の経緯とは異なっています。周の先祖は后稷(こうしょく)で、堯(ぎょう)がこれを台(たい、陝西省)に封じました。それから、徳を積み善を累ねること(かさねること)十余代の後、公劉(こうりゅう)は夏の桀王(けつおう)の暴虐を避けて、ヒン(陝西省)に住みました。

後、太王(だいおう)は夷狄(いてき)の侵略を避けてヒンを去り、鞭を杖のようにして岐(き、陝西省)に移住しましたが、ヒンの人々は争ってこれに随い(したがい)ました。

文王が西伯(せいはく)となり、虞・内(ぐ・ぜい)二国の訴訟を裁断して、初めて天命を受けると、太公望呂尚(たいこうぼう・りょしょう)や伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)が海浜の地から来て帰属しました。

武王が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を伐つと、別に期日を約束したわけでもないのに、孟津(もうしん、洛陽の東)付近に集まった諸侯は八百にものぼり、みんな、「紂は伐つべきである」と言い、遂に殷を滅ぼしたのです。

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成王(せいおう)が即位すると、周公たちが補佐役・宰相になり、都城としての西周城を洛邑(洛陽)に造営しました。洛陽こそ天下の中央であり、諸侯が四方から朝貢して、夫役(ぶやく)などを差し出すのにも道のりが均しい(ひとしい)と考えられたからです。

洛陽は徳のある者にとっては王になりやすく、徳のない者にとっては滅びやすい地です。この地に都を置いたのは、周が代々の王に徳を持って人々を懐かせるように努力させたいと考えたからであり、険阻(けんそ)な地形を恃んだり(たのんだり)、子孫が驕奢(きょうしゃ)になって民を虐げたりすることを望まなかったからでしょう。

周の盛時においては、天下は親和して四方の夷狄もその風化になびき、義を慕い徳に懐き、王室にすがってみなが天下に仕えたのです。一兵をも駐屯させず、一士をも戦わせずとも、八方の夷狄や大国の民までも悦服して朝貢・夫役を果たさなかった者はいませんでした。

しかし、周が衰えると、分裂して東西二周となり、天下には入朝する諸侯もなく、周王室はそれを制することはできませんでした。徳が薄かったからではなく、都の地形が要害ではなかったからです。

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今、陛下は豊・沛(ほう・はい)より起こり、卒三千人を手中に収めて、これを率いて突進し蜀・漢を席巻し、三秦を平定し、項羽とケイ陽(けいよう)に戦い、成コウ(せいこう)の要地で争い、大戦は七十回にのぼり、小戦は四十回に及びました。

この戦いで天下の民を死傷させて、その肝脳(かんのう)を地にまみれさせ、父子ともに骨を野にさらさせたことは、数え切れないほどです。哭泣(こくきゅう)の声はいまだ絶えず、傷痍(しょうい)の者はいまだ起き上がれない状態にあるのに、周の最盛期である成王・康王の時代と隆昌(りゅうしょう)を競おうとされていて、洛陽に都を置いているのは、私はひそかにふさわしくないことだと考えております。

一方、秦の地は山に蔽われ(おおわれ)、黄河を帯び、四方の要害が国土の固めになっていて、危急の事態に直面しても、百万の大軍を配備できます。秦の故都に拠り、この肥沃の地を活用すれば、これこそいわゆる天府(天然の府庫)となります。

陛下が入関してそこに都を置けば、山東の地が乱れたとしても、秦の故地は完全にそのまま保有することができます。そもそも、人と闘う場合、相手の喉をしめ、その背を撃たないことには勝利を完全なものにすることはできません。今、陛下が入関してそこに都を置かれ、秦の故地を掌握されれば、天下の喉をしめてその背を撃つことになると言えるでしょう。」

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