『史記 張釈之・馮唐列伝 第四十二』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 張釈之・馮唐列伝 第四十二』の1について現代語訳を紹介しています。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 張釈之・馮唐列伝 第四十二』のエピソードの現代語訳:1]

廷尉(ていい・監獄の長官)の張釈之(ちょうせきし)は、者陽(しゃよう・河南省)の人である。字(あざな)は季(き)。仲(ちゅう)という兄がいて共に住んでいたが、財産を献上して騎郎(きろう)となり孝文帝に仕えた。しかし十年経っても昇進できず、名も世に知られなかったので張釈之は、

「長く仕官したものの仲の財産を減らしただけで栄達は遂げられなかった」と言って辞職して故郷に帰ろうとした。中郎将(ちゅうろうしょう)の袁央(えんおう)が釈之の賢明さを知っていて帰郷することを惜しみ、奏上して謁者(えっしゃ・賓客対応係)にしてやった。釈之は朝見の儀を終えると帝の前に進み出て、政治に有益な発言をした。孝文帝は言った。

「地に足がついた議論をせよ。高尚すぎて迂遠なことを言っても無駄である。現時点において実施できることを語れ」

それを聞いて釈之は秦・漢にまつわること、すなわち秦が天下を取った所以、漢が隆盛した所以を長時間にわたって語った。孝文帝は「よい」とほめて、釈之を謁者僕射(えっしゃぼくや・賓客係長官)に任命した。

釈之が行幸のお供をして虎圏(こけん・虎を飼育する場所)に行ったとき、帝は上林苑(じょうりんえん)の尉(い)たちに諸々の禽獣の帳簿について質問された。十あまりのご下問であったが、尉たちはお互いに顔を見合わせるばかりで一つも答えることができなかった。

虎圏の嗇夫(しょくふ・尉より下の官位の者)の一人が、傍らから尉たちの代理で帝のご質問に答えたが、とても行き届いた返答であり、自己の有能を示す意気込みもあって、その応答はよどみがなかった。

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孝文帝は言った。「役人というものはこうあるべきではないのか。尉たちは頼りない」

そこで釈之に詔して嗇夫を上林苑の令(長官)に任命しようとした。釈之はしばらく考えていたが進み出て述べた。

「陛下は絳侯周勃(こうこうしゅうぼつ)はどのような人物だと思いますか?」

「有徳者であると思う。」

釈之は重ねて尋ねた。

「東陽侯張相如(とうようこう・ちょうしょうじょ)はどのような人物だと思いますか?」

「この人も有徳者であろう。」

「絳侯と東陽侯を有徳者であると称賛されましたが、あの二人は何かを言う時に口下手で上手い表現などできません。この嗇夫のように口が上手くてよく舌が回るのを見習うことなどは絶対にしない方たちです。それに秦は刀筆の吏(とうひつのり・小役人)に政治を任せたため、彼らは微細なことを誇り合うだけになりました。その弊害として、虚しく表面的な規則が増えるだけで、下民を憐れむ実を失ったのです。このような状態に陥り、皇帝は自らの過ちを指摘される諫言も聞かず、政治は次第に衰えていき、二世皇帝に至ってその天下は土のように崩壊することになりました。

しかし今、陛下は嗇夫の弁舌を高く評価されてこれを抜擢して昇進させようとしておられます。そのようなことをすると、天下は風に随って(したがって)なびくように争って弁舌を磨くことだけに努めるようになり、秦のように実が無くなってしまうことを恐れます。

また下が上に教化されるのは影が形に随い、響が声に応じるより速やかです。人事は慎重に審議されなければなりません。」

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孝文帝は「なるほど」とうなずいて、嗇夫を令に任じることを思いとどまった。そして車に乗ると、釈之を召して陪乗(ばいじょう)させ、ゆっくり車を進めながら釈之に秦の失政について問うた。釈之は細かく実情を述べた。宮中に還御(かんぎょ)すると、帝は釈之を公車令(こうしゃれい・司馬門の長官)に任命した。それからしばらくの後、太子が梁王と同じ車に乗って参内したが、司馬門で下車しなかった。釈之は追いかけて太子と梁王をとめて、宮殿の門に入るのを禁止して、

「公門で下車しないのは不敬です。」と弾劾して、この由を奏上した。薄太后(はくたいこう)がこのことを耳にした。孝文帝は冠を脱いで丁重に謝って言った。

「子供の教育が不十分でした。」

そこで薄太后は使いを送って詔を受けさせ、太子と梁王を赦してもらおうとした。二人はこうしてようやく宮殿に入ることができた。孝文帝はこの問題で釈之を珍しい人物であると認めて、中大夫に任じた。釈之はしばらくして中郎将に昇進した。

行幸のお供をして霸陵(はりょう・長安の東の丘)に出かけたとき、帝は北側の断崖の上に臨んで遠くを眺めた。この時、慎夫人がお側に従っていたが、帝は指さして新豊(しんぽう・陝西省)への道を示して言った。

「あれは邯鄲(河北省にある慎夫人の故郷)へと向かう道である。」

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そして慎夫人に瑟(大きな琴)を弾かせて、帝みずから瑟に合わせて歌ったが、その歌の調べには痛ましく悲しい思いがこもっていた。帝は群臣を振り返って言った。

「ああ、北山の美しく緻密な石でカク(棺の外箱)をつくり、アキ・ワタを刻んで隙間がないようにして、上から漆で固めたら、誰もそれを動かして中にある宝物を取ることもできないだろう。」

左右の者はみな、「まことにその通りです」と言ったが、釈之は進み出て言った。

「中に宝物など人の欲しがるものを入れておけば、南山(陝西省)をそのまま棺桶にして鉄を溶かしてそれを固めても、やはり狙う隙間というものはあります。中に人の欲しがるものがなければ石の棺などなくても心配は要りません。」

帝は「なるほど」とうなずいて、その後、釈之を廷尉に任じた。

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