『史記 劉敬・叔孫通列伝 第三十九』の現代語訳:4

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 劉敬・叔孫通列伝 第三十九』の4について現代語訳を紹介しています。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 劉敬・叔孫通列伝 第三十九』のエピソードの現代語訳:4]

漢の七年(紀元前200年)に長楽宮ができた。諸侯・群臣はみんな入朝して、十月の朝議が行われた。夜明けの前に、謁者が式典をつかさどり、参列者を順に門の中へと入れた。廷中に車騎をつらね、歩卒・衛士が立ち並び武器をそろえ、旗を立てて「小走りに進め」と伝令が出ていた。宮殿の下には老中が陛(きざはし)を両サイドから挟んで立ち、陛ごとに数百人が控えていた。功臣・列侯・将軍・軍吏は序列に従って西側につらなって東側を向き、文官の丞相以下は東側につらなって西側を向いていた。

大行(たいこう、接遇係の長官)は9人の介添えを置いて、賓客の接遇・応対をしていた。こうして皇帝がレンに乗って出御(しゅつぎょ)すると、百官は幟を手にして場を静かにさせた。諸侯・王以下俸禄600石の吏までが導かれて御前に進み、順番に祝辞を申し上げた。諸侯王をはじめとして、恐縮・畏敬の念を持たない者はいなかった。拝賀の礼が終わると、さらに法酒(儀礼の酒宴)が進んで、諸々の殿上に侍る者はみな平伏して頭を下げた。尊卑の順番に従って立ち上がり、寿酒を差し上げた。さかずきが9回まわると、謁者が「酒はそこまで」と合図した。

御史は法に照らして、作法どおりにしない者を見つけるとすぐに退席させた。朝議が終わるとまた酒宴が開かれたが、誰もうるさく騒ぐ者はいなかった。こうして、高帝は言った。「私は今日はじめて皇帝たることの尊貴を知った」

そして、ただちに叔孫通を太常(たいじょう)に任命し、金五百斤を賜われた。叔孫通はこの機会に進み出て言った。「弟子の儒生たちは私に長く随っています。また私と一緒に儀礼の制定を行いました。どうか陛下には、弟子たちにも官位をお与えください」

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高帝は彼らをすべて郎官に任命した。叔孫通は退出すると、五百斤の金をすべて弟子達に与えた。諸生はみんな喜んで言った。「叔孫先生は本当の聖人である。当世の要諦を知っておられる」

漢の九年、高帝は叔孫通を異動させて太子太傅(たいしたいふ)とした。漢の十二年、高祖は趙王如意(にょい)を太子に変えようとした。叔孫通は帝を諫めて言った。「昔、晋の献公(けんこう)は麗姫(りき)を寵愛するあまり、太子を廃して麗姫の生んだケイ斉(けいせい)を太子に立てましたが、そのために晋国は数十年にわたって乱れ、天下の物笑いとなりました。また秦は扶蘇(ふそ)を早く太子に決めておかなかったため、宦官・趙高(ちょうこう)に詔を偽って胡亥(こがい)を立てるスキを与え、自ら祖先の祭祀を絶やしてしまいました。

これは陛下が親しくご覧になられてきたことです。今、太子は仁・孝の徳に適い、天下の人々はみなそのことを聞いて知っております。また呂公(太子の母)は陛下と共に苦難に対処してきて、共に粗食に耐えてこられました。その呂公様を裏切ることは許されることでしょうか?陛下がどうしても嫡子を廃して如意を太子にされようとするのであれば、私が真っ先に誅伐を受けて、頸血(けいけつ)で地面を汚したいとすら考えております」

高帝は言った。「もうやめてくれ。私は少し冗談を言っただけである」

「太子は天下の本です。本がいったん揺らげば、天下は振動します。天下の大事に関してご冗談をおっしゃるというのはどういうお考えなのですか?」

「もう分かった。そなたの意見を聞き入れることとする」

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その後、帝が酒宴を開いたとき、留侯(張良)が招いた客が太子に従ってきて謁見すると、帝は遂に太子を変えようとする考えを無くした。高帝が崩じて孝恵帝が即位すると、帝は叔孫通に「先帝の御陵・霊廟にお仕えする儀礼に関して、よく知っている群臣がいない」と言って彼をまた太常に戻した。宗廟の儀礼を定めて、漢の諸儀法のほとんどを制定したのは、すべて叔孫通が再び太常になってからしたことである。

孝恵帝は宮廷の東の隅にある呂后滞在の長楽宮に参り、また公式でなくてもよく訪ねて、頻繁に通行止めにして人々をわずらわせることが多かったので、複道(道の上にさらにつくる道)をつくることにした。武器庫の南から作り始めた。叔孫通はあることを上奏したついでに機会を見つけて言った。「陛下はどうして複道をお築きになられるのですか。高寝(こうしん、高祖の廟)に収められている高帝の衣冠は、月一度は高廟に運ばなければなりません。高廟は漢の始祖をお祭りしている場所です。後世の子孫が、宗廟への道をまたいで通っても良いものでしょうか?」

孝恵帝は大いに恐懼して言った。「急いで取り壊すことにする」 叔孫通は言った。「人君には本来、過った行為はないのです。複道を作りかけていることは、人民はみんな知っています。今、それを取り壊せば、陛下が過った行為をしてしまったことを示すことになってしまいます。どうか陛下は、もう一つ別の廟を渭水の北におつくりになり、高帝の衣冠を月ごとにそこにお運びください。宗廟をさらに広くして多くすることは、大孝の本でもあります」

それを聞いて帝はただちに役人に命じて、もう一つの廟を立てさせた。新廟が立ったのは複道が問題にされたからである。

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孝恵帝がある春に離宮でお遊ばれになったとき、叔孫通は言った。「古礼では春に宗廟に果物を供えるのがしきたりでした。ただ今は桜桃が熟していてお供え物として適しています。どうか陛下にはこれを機に、桜桃を取って宗廟にお供えしてください」

帝はこれを聴き入れた。諸々の果実を宗廟に供えることは、これをきっかけに盛んになったのである。

太史公曰く――古語に「千金の裘(かわごろも)は、一狐の腋の下の皮ではできない。高殿のタルキは、一木の枝ではできない。夏・殷・周三代の盛時は、一人の士の智では再現できない」とあるが、本当にその通りである。そもそも高祖は微賤の身から起こって海内を平定したのであり、その謀計・用兵は至上であったといえる。しかし、劉敬はバンカクから下りて、いったん遷都のことを説いて万世の平安を打ち立てた。智は本当に一人では独占できないものではないか。

叔孫通は世に用いられることを願い、当世の要諦を考えて儀礼を定め、進退の節度を守って、時勢に合わせて変化した。そして遂に漢代儒者の宗家となったのである。「純粋に直なるものは曲がって見え、道は本来曲がりくねっている」とは、彼のような者のことを言うのであろうか。

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